Facebook 2019年5月3日

<令和に生きる近江の祭り(その2)>日野町馬見岡綿向神社の日野祭りに新時代の安寧と幸せを祈らせていただきました。祭り日和の晴れ渡った青空の元、14基の絢爛豪華な曳山がお宮さんに勢ぞろい。今日は念願の、桟敷窓から、巡行する曳山を拝ませていただきました。鯛そうめんや田楽などのご馳走をいただきながらというのが更に嬉しい。祭り大好き人間としては至福の時間。多くの懐かしい方たちにお出会いさせていただきました。お世話になりました中田さん、加納さん、井阪さん、竜王さん、モーアさん、皆さまに感謝です。(1000文字)5月3日。

もともと馬見岡綿向神社は鈴鹿山系の綿向山山頂にありましたが、平安時代初期に現在の場所に移され、農耕をつかさどる神となったということ。古来より水田農業に欠かすことのできない水源への祈りが込められていたものと思われますが、江戸時代には全国で活躍する日野商人の財力により、美術的価値の高い曳山が建造され、春祭りのハイライトになったようです。地域の各町が維持管理をし、毎年の巡行には大変なエネルギーがかけられていることがよくわかります。

今日は、神子と呼ばれる3人のお稚児さんが、袴姿の芝田楽に警護されながら綿向神社から御旅所に向かう所から、神輿渡御や曳山の町内巡行を見せていただきました。何よりも、日野祭りといえば「独特の桟敷窓」と「鯛そうめん」。家いえの窓や塀に造られる切り窓には赤い毛氈。鯛そうめんや田楽のご馳走をいただきながらの祭りばやしは最高でした!

なぜ、遠い海の幸である鯛なのか?江戸時代に日野商人が「おたな(出稼ぎ)」に出て行き、5月3日の日野祭りに帰ってくる際、天然の鯛を持ち帰り、お祭りを祝って伝統料理になったと言われています。長浜や高島では日本海からの焼き鯖を使った「鯖そうめん」であるのが、日野では鯛、というところが見事です。なぜ両方ともそうめん?どなたかご存じでしたら教えて下さい!

4年ぶりに伺った日野祭りでしたが、今日は若い家族連れや外国の方のお姿が目立ちました。何よりも住民として参加しておられたモーアさんご家族。清水町の町内会長までなさり、小学校4年生になった息子さん含め、日野町民として、祭りに溶け込んでおられました。

愛犬にも祭り衣装!という場面も始めて出会いました。伝統の祭りも時代とともに変わっていく!変わる余地があるからこそ伝統は守られる、とも言えるのではないか。「不易流行」と言ってもいいのか、新しい時代に伝統をいかに埋め込んでいくのか?時代をこえての課題です。

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