Facebook 2014年1月13日

『M・O・H通信』の企画で、比叡山延暦寺の小林隆彰 天台宗大僧正、新江州株式会社の森建司 会長、そして私の3人による鼎談に参加させていただきました。(長いです)

1月13日(月・祝)。今日は午後から比叡山延暦寺へ向かう。「もったいない」「おかげさまで」「ほどほどに」という理念を盛り込み新しい社会づくりを提案する『M・O・H通信』が10周年を迎えました。

この3月に発行する10周年記念号むけの鼎談に今日はご招待いただきました。テーマは、「今までの10年」と「これからの10年」。

まず、盛り上がったのは、1200年にわたる比叡山の時間軸の長さと栄枯盛衰の歴史です。小林大僧正からは、ご自身の歴史研究から、450年前に焼き討ちをした信長を、比叡山が生まれかわる恩人であると評価をし、内部からの批判を受けながらも理解者を広げてきて、今の自分がある、というお話を伺いました。勇気ある信長解釈をなさったわけです。

私は比叡山と自分とのかかわりから話しをさせてもらいました。中学校3年生の修学旅行で比叡山を訪れ、荘厳なる杉木立と根本中堂、千年の不滅の法灯と秘仏薬師如来厨子に感動、またドライブウェイからの美しい琵琶湖を眺め「こんなところに住んでみたい」と憧れの場となりました。

あれから48年・・・。その間、15歳の少女がなぜ比叡山と琵琶湖に直感的に憧れたのか、自問自答しながら至った結論は、比叡山と琵琶湖の自然の奥深さと、千日回峰などを生み出してきた歴史・文化の厚みです。

平安京の都を守るといわれる比叡山ですが、そもそもの表側は琵琶湖ではないか、と申し上げました。

開祖の伝教大師(最澄)は琵琶湖辺の坂本で生まれ育ち、瀬田の近江国分寺から琵琶湖を経て対岸の比叡の山を眺めながら修行と勉学に励み、山頂部に自らが刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられよう不滅の法灯を備え、一乗止観院をおつくりになったと言われています。桓武天皇が平安京をひらく794年の6年前の788年といわれています。

東に琵琶湖水面が広がる比叡山には、薬師如来の功徳を存分に発揮させる瑠璃の光が琵琶湖から放たれています。薬師如来の功徳を発揮させる力は琵琶湖の水の光(瑠璃光)であり、それゆえ、『梁塵秘抄』には、「琵琶湖は天台薬師の池」と記されています。ちなみに延暦寺の住所も、滋賀県大津市坂本本町です。

というような流れを小林大僧正と語りあいながら、滋賀の地は、調べれば調べるほど凄い力をもっており、もっともっと誇りを持って発信していくべき、という点で3人の意見が一致しました。

未来にむけては、小林大僧正は世界平和に向けて比叡山で世界中の宗教関係者が集まる「宗教サミット」を始められたことや、明日のため、誰かのためにという「為」という字を大切にされていること、「不滅の法灯」を絶やさぬための日々の菜種油を全国から提供いただきながら、維持していることの意義などをお話されました。

私からも、「不易流行」という考えにのっとり、地域の人が守り育ててきた長い歴史が今につながっており、「不易」と「流行」いずれも大切で、その上で、琵琶湖などの滋賀が持っている自然の力を改めて皆で自覚し、培われてきた歴史文化の力を誇りとして、「滋賀に生まれて良かった、終の棲家に」と思ってもらえる人が増えるこれからの10年の方向を定めていきたいとお伝えしました。

そこでは価値観の転換が必要で、今までのようにモノ(ハードウェア)の価値だけを評価することに加えて、それを生みだした出来事や仕組み(ソフトウェア)、そこに隠されている思いや魂(ハートウェア)を大切にする社会になれば素敵だと思います。

森会長からも、まさに『M・O・H通信』の理念である競争社会から共生社会へ移っていくことの大切さ、地産地消のなかでローカルに力強く生きる地域社会の重要性を投げかけていただきました。

予定時間を大幅に超えての鼎談となりましたが、雪化粧した比叡山で大先輩から経験深いお話を伺って、私自身も慌ただしい日々の生活を見つめ直すことができ、とても楽しく有意義な時間でした。

詳しい鼎談の内容は、3月発行予定の『M・O・H通信』43号をご覧ください。

先頭に戻る