Facebook 2015年8月11日

「あかりがつなぐ記憶」(天若湖アートプロジェクト)で、日吉ダムに水没した集落の皆さまから、川と近い暮らしぶりを伺い、次世代へ語り次ぐお約束をしました(8月8日、京都府南丹市旧日吉町郷土資料館にて)。(長いです)

弥生の時代から豊かな川と森の恵みに行かされ、住み継がれてきた天若地区。奈良や平安京の都造営のための木材を山で育て、切り出し、筏にして下流に供給。大きな活きたままのアユを京都の高級料亭に運び、京の味と文化も支えてきた天若地区。

子どもたちは夏になると待ち切れず川に飛び込み、女性は川で洗濯をしながら子どもの遊びを見守ったという「近い水」が生きていた桂川上流の大い川。地元では単に「川」と呼ばれていた。

今回のお話でわかったことは、昭和30年代に多目的ダムの日吉ダム建設で水没移転話が持ち込まれる前に、昭和26年にできた関西電力の発電用ダム(世木ダム)で、渇水時には発電に水をとられ川の流れが切断され、大雨の時には逆に一気水でそれまでに経験したことがないような洪水が頻繁におきた、ということです。皆さんが口ぐちに語られました。天若地区はいわば「ダムに二回殺された」ともいえます。

湯浅勝敏さんは、昭和30年代の台風で(たぶん昭和35年の台風16号)、それまで経験したことがない水が一時間ほどで床上に迫り仏壇まで濡らしてしまいご先祖さまからの家の由来文書も水つきにあった、と濡れ跡のついた文書をもってきてみせてくださいました。

今回のこの語りの会は、アートプロジェクトを10年やってきて、地元の方から、自分たちから語らせてほしいとお申し出があったということ。村を出て30年、一世代たって、次の世代に何としても水没前の村の暮らしぶりを残し伝えておきたい、という思いがつまった語りでした。

私も各地で昔の暮らしの聞き取りをさせてもらいましたが、ダムに沈んだ村の皆さんの語りはいつも心がはりさけるほどつらいです。古代から千年、二千年と住み継がれてきた故郷から、まさに生木を抜き取るように引きはがされてきた皆さんの無念とあきらめ、そして今の心境。それもすべて下流都市部の利水や治水のため、と説明される。今回の語りの記録は、アートプロジェクトとして記録をして、皆さんに見ていただけるよう手配いたします。

そして晩には、ダム湖の水面に、かつての住宅があった場所に明かりが一灯ずつともされました。摂南大学や京都市立芸大の学生さんたちの汗の結晶です。皆さんお疲れさまでした!

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