Facebook2017年11月26日

「琵琶湖便り 2017/11/26」 「近江万葉の会(鈴木靖将代表)」が、天智天皇が667年に大津京に遷都をして1350年祭の記念として進めてきた万葉歌碑、9基、10基目が完成。唐崎公園での除幕式に参加しました。11月26日。また長いです(微笑)。

9期目の歌碑を、悪筆ゆえずっと躊躇していたのですが、友人の鈴木さんから「初めての滋賀県の女性知事として後世に残してほしい」と強くおされ、恥ずかしながら揮毫させていただきました。何度みても恥ずかしいかぎりです。10基目は文化勲章を受けられた万葉学者、中西進さまで、光栄な同席をさせていただきました。

私が揮毫させていただいたのは、万葉集巻第2 115番の但馬皇女作の歌です。恋する穂積皇子が近江の志賀にいった時の歌と言われ、自ら行き送れてしまったが、おいかけていきたいので、道の曲がり角にしるしをつけておいて下さい、我が愛する人よ、という意味。

「送れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の阿廻(くまみ)に 標結へ我が背」

また中西進さまが揮毫なさったのは、万葉集巻2 152番の舎人吉年(とねりのきね)という女官の歌で、天智天皇が崩御なさった後、その御亡骸を乗せた大御船が唐崎の浜を出られる時の悲しみの情景を歌われております。まさに歌碑が建てられたその場からは琵琶湖を経て近江富士がみえる格好の場です。

「やすみしし わが大君の 大御船 待ちか 恋ふらむ 志賀の辛崎」

中西進さまのお話はさすが万葉学者の深い造詣にみちておられました。この時代は「万葉歌詞政治」ともいえる時の政治状況や人間関係を歌に託し、ある意味で権力争いの表現も込めたという。たとえば百人一種の最初の句は天智天皇作として有名です。「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」という歌です。

なぜこれが万葉集にはいっていないのか、万葉集を編んだといわれる大伴家持の時代の「反天智天皇」という政治意思が働いていたのではないか、という。あわせてこの「かりほの庵」は、額田王と大海皇子(後の天武天皇)の「かりほの庵」での恋の歌があり、それにくらべてひとり自分はさびしい、という意味もこめられているのではないか、ということです。これまで長い間、天皇たる人がなぜこのようなさびしい歌を、と素人ながら疑問に思っていたのですが、今回その謎がとけたような気がします。

私も短い挨拶をさせていただきました。行政を経験してきた立場から、土地や人の有り様を制度化するのは行政組織の基本であり、天智天皇は中大兄として「大化の改新」により行政組織の先駆的な整備を構想し、大津京で即位後の670年には日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていったこと。

またその存在は証明されていませんが、701年の「大宝律令」に先だって、「近江令」という律令法制を定めたとも言われております。さらに皇太子時代に水時計をつくり国民に時を知らせる仕組みをつくった、といい、国家としての基本的制度をつくった政治指導者として改革の志に満ちた偉大な人ではなかったか?というお話をさせてもらいました。

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