Facebook 2016年8月14日

埼玉本庄で、父と母の魂のお盆迎え。兄夫婦、姉夫婦、跡取り息子の甥っ子の渡邊泰之と、彼が政策研究大学院で指導している、ミャンマー内務省からの留学生のアカさんを交えての、また姪っ子の子どもたちも交えてのにぎやかなお盆迎えでした。合わせて、かねてから気になっていた「ファミリーヒストリー」探索をすすめる。8月13ー14日。(また長い^_^)

13日午後、本庄市中心部近くの円心寺の本堂に仏さまをお迎えに。提灯に仏火を灯して家にお連れする。アカさんを交えての本堂での記念写真。また本庄市指定文化財となっている山門の姿も記念におさめる。自宅までお迎えした仏さまは、門前で藁で火をつけて、煙にのってもらい、屋敷内に導く。

家の中には、昔ながらのしつらえの伝統の「盆棚」。私の子ども時代からずっと変わらず、懐かしい情景です。明治初期建設の老朽化した本宅養蚕農家も、屋根瓦全体を入れ替え、柱と床も総入れ替えをして、大耐震改修がほぼ完成。兄夫婦のこだわりが活きる、古民家再生プロジェクトで、兄夫婦に深く感謝です。

そもそもこの本宅を建設したのは、明治初期に渡邊の家に、澁澤栄一の出身地の血洗島(現深谷市)の隣集落の下手計(しもてばか)から婿入りしてきた道三郎さんであるという。そして、今も母屋のあい向かいには「長屋」があり、ここはかつて「藍玉」を製造していた建物で、これも道三郎さんが商売用に建てたという。我が実家の本庄新田と血洗島は6キロほど、明治初期、徒歩であっても1時間半ほどでしょう。

ということで、今、日本経済史や地域振興の歴史、日本の近代化に果たした澁澤栄一の役割などに関心を持っている甥っ子の泰之とアカさんを伴って、澁澤記念館を訪問調査。道三郎さんの年齢は澁澤栄一よりも2歳若いがほぼ同年齢。また澁澤栄一たちを地元で教育した尾高惇忠は道三郎さんと同じ集落で、12歳としうえ。状況証拠からして、道三郎さんの本庄新田での藍玉と養蚕の仕事は尾高惇忠や澁澤栄一とつながっていた、と言ってよいでしょう。ただ具体的な文字記録は今の所発見されていません。

以上は私の父方の系譜です。また母方の祖母も、 血洗島の隣の町田という集落の出身ということで、その家も探り当てて、今回訪問しました。母方の祖母の母の実家は、澁澤栄一の生家を守ってきた妹夫婦の子どもの澁澤治太郎家と何か繋がりがあるということですが、昨日のところはそれ以上つかめませんでした。

改めて澁澤栄一を生んだ地域は、利根川中流部、小山川が注ぐ「中瀬」という港近くで、ここまでは太平洋側から高瀬舟が入り、内陸部の鉄道網などができる前の、江戸末期から明治初期には、 物流や情報の交流拠点であった様です。その上、利根川の氾濫原で、毎年のように氾濫する土砂が栄養分と砂を運び、藍玉の原料の藍生産にはうってつけの地味だったようです。

ちょうど阿波、吉野川の氾濫原と地勢がにています。ただ阿波では藍玉生産の技術は「門外不出」にしていたようですが、利根川沿いの久喜に阿波からきた一人の女性が技術を持ち込んだという伝説があるようですが、ここもまだまだ未確認です。

いずれにしろ、藍玉も養蚕も直接食料にできるわけではなく、まさに「物流商品」として生産されていたわけで、養蚕についてはこのあと、尾高惇忠たちが中心となって建設する「富岡製糸工場」へと発展していくわけです。そして、日本の近代化を進めるための「外貨獲得」の輸出品として成長していくわけです。今日のところは、ここまでで、、、。

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