Facebook 2016年9月18日

「なぜ嘉田由紀子が知事をめざしたのか?―政治家の父、農婦の母の実践から」(むちゃくちゃ長いです!) (あくまでも中間記録です)

2016年9月18日、雨模様の中、三井寺の「野外寺子屋」にお集まりいただいた20名ほどの聴き手の皆さん、それぞれの店番をしながら、耳を傾けて下さった30名ほどの皆さんに、以下の流れでお話をさせていただきました。かなり長いですが、記録のために私の記憶に従ってアップさせてもらいます。内容をかなりはしょっていますが、正確な記録は後ほど活字化を考えています。

なお今日烏丸半島で西川貴教さんが主催している「イナズマロックフェス」に敬意を表して、イナズマTシャツでお話をさせていただきました^_^。イナズマフェスは2007年の西川さんと私の新春対談から始まりました。

(1) 埼玉県、養蚕農家うまれ 政治家の父の姿

埼玉県北部の畑作地帯の養蚕農家で戦後、まだ食料も不十分な昭和25年に生まれ、昭和30年代の高度経済成長による都市化で畑が工場や住宅にかわるありさまを日々みていた少女時代、父は農業委員・自治会長から若くして市議会議員になり、工場や大学誘致に奔走していた。戦前10町歩ほどの地主の息子でいわば不労所得で育った「遊び人」で、農業はほとんど母任せ。戦後の農地解放で財産を無くして生活が苦しくても農業労働は嫌だった。

父の日々の話題は「あそこの道路を今度舗装しよう」「バス路線もつくろう」「こんど工場がきたら仕事が増えてみんなが豊かになれる」などで、開発用の土地の買収などに奔走していた。その中に早稲田大学の誘致もあった(これが平成にはいってからの新幹線の請願新駅「本庄早稲田駅」につながる)。父にとっては「地域開発」の大命題がありそれが議員としてのやりがいだったようだ。毎日のように来客も多く、子ども心に日々が地域政治の話題で満たされていた。

父の市議会議員選挙には子どもながら事務所に行ってお茶入れをして、選挙カーにも乗らせてもらって「OOOに一票を!」と訴えていた(今なら選挙違反ですが・・・)。地方政治の表も裏も見て育った。子ども心に選挙はおもしろかった。

(2) 農業で子育てしながらのエコロジストの母、明治民法頭の祖父による男尊女卑の迫害

そんな父の社会的活動をななめに見ていた母は、畑で野菜を育て水田で米を育て、子どもの栄養分の補充にとヤギを飼って早朝から草刈をして食の充実に心を砕いてくれた。味噌、醤油からうどん、すべて手作りだった。購入した食材は煮干しと豆腐くらいだった。こんにゃくさえ、イモを育てて手づくりだった。ちょうど、オーガニックガーデンに今日集まっているお母さん、お父さんたちと共通の思想を母は昭和30年代に持っていた。農薬が入ってきても子どもの口に入るものには農薬を絶対使わなかった。

その母は私を産んで直後、過酷な農業労働と父の妹・弟をふくんでの13人の大家族の世話などで過労がたたり結核になってしまった。病がちな母の前に、「肺病やみの嫁は厄病神だ!」と寝室にまで包丁をもって押しかけ「セン(母の名)、畑に行け!」という鬼のような祖父がいた(人前で初めて公に口に出しました。涙が溢れましたが、これは母だけではない、あの時代、家制度下で苦しめられた多くの女性の代弁とも思い、思いきって口を開きました)。

その祖父が信じていたのが明治民法に規定された「家制度」だった。「イエとはそこに住む人間ではなく、建物と財産、先祖の仏壇と墓、そして稼ぐための労働力、イエの系譜をつなぐための子どもを産む“女の腹”」だった。“女の腹は借り物”とまで言われていた。祖父は家イデオロギーの権化だった。男尊女卑の価値観の怖さと力を見せつけられた。

そんな母が畑仕事をしながら、じっくり教えてくれたことがあった。自然の魅力と奥深さだった。「ゆきちゃん、名前のない草ってないんだよ。ほら、この花、仏さんが座っているみたいだろう。だからホトケノザって呼ぶんだよ」と、草取り仕事をしながら教えてくれた。道端の雑草も彼女の手にかかると新聞紙にはさまれ、押し花になり、台紙に張られ丁寧に名前が書かれ、植物標本になる。(後から私たち子どもたちの夏休みの宿題に化ける!?)。

母が亡くなって18年後の1昨年に、築150年になる実家の大改造を行った兄が、母のタンスの底から発見したのが、母が記した昭和28年の「結核闘病日記」と、昭和30年代の「押し花標本」だった。

(3) 母が支えてくれた自分の学者人生を社会に役立てたいと知事選挙に挑戦

「女は高校へいかなくていい」という「明治民法頭」の祖父が邪魔するところを上級校に送り込んでくれて学問の道に進ませてくれたのは母の強い意思だった。「女も自分で学んで稼いで社会に貢献するべし」と。それゆえ、私が家族社会学や環境学などの学問を選んだのも、母からの教えが源だ。明治民法の家制度の中で苦しめられた母の人生に「なぜ」という答えが欲しかった。そこで家族社会学を学ぼうとした。身の周りの農業の力と、自然の不思議と魅力もとことん追求したかった。そこで環境学を学ぼうとした。学問の道は自らの子ども時代からの社会の不条理や、自然の不思議を追求するためだった。

そして、まずは人とは何か、自然とは何かという不思議を解きたいと、人類の誕生の地と言われるアフリカでの現地調査を目指した。1ドル360円という海外への旅行が高価な1960年代、まして女がひとりアフリカに行くにはどうするか?いろいろ調べて、京都の大学の探検部を目指した。中学校の修学旅行で比叡山と琵琶湖に感動し、高校の修学旅行で、まさにここ三井寺や石山寺を訪問し、関西の大学は最大の希望だった。1969年に大学入学後「女人禁制」といわれた探検部に押し入り、三回生の時に憧れのタンザニアの村に半年すみこんで発見したのは「コップ一杯の水の価値・貴重さ」、「一皿の食物の価値・貴重さ」だった。

1972年、「成長の限界」が発刊され、地球規模の環境問題が社会問題化され始めた。そこで社会学・人類学の視点から水環境問題にアプローチしたいと思ったが日本には学びの場がなくアメリカの大学院をめざした。そこで指導教授から言われたのは「水との共生文明を築いてきたのはアメリカでもヨーロッパでもない、稲作文明を数千年維持してきた日本だ、日本の農村社会での水文明を研究したら」とヒントをいただき、琵琶湖周辺の水田農村を研究場所に選んだ。1974年のことだ。琵琶湖周辺農村の研究成果を評価してもらい、後ほど紹介するように1981年の琵琶湖研究所職員に採用してもらった。

そしてその学問の成果は社会に役立てたいと思った。それが琵琶湖研究を30年以上にわたり続けた2006年時点での私の覚悟だった。琵琶湖の環境保全をめざすなら治水ダムは今となっては多額の投資や環境への悪影響の割に効果が薄い。水害対策なら、土地利用の工夫、建物の工夫、避難体制の徹底などで命を守れる。なぜダム建設にこだわるのか。琵琶湖の自然を尊重するなら水上バイクは邪魔だ。なぜ水上バイクを「気持ちがいい」と知事自らが推奨するのか。その裏には特定の団体の政治献金がらみの利権が働いていた。

一方で子産み・子育てと琵琶湖の研究者としての仕事を両立する上で苦しんできた私自身の経験を活かしたいと思った。アメリカに留学中、第一子をみごもった時、アメリカの社会心理学の先生がアドバイスをくれた。「あなたのようにアチーブメント意識の高い女性は専業主婦に向いていません。子どもを不幸にします。1日24時間のうち、23時間は子育てを誰かに頼みなさい、1日1時間の愛情で子どもは育ちます」と。

このアドバイスは今から考えても大変ありがたいと思う。子産み・子育てと職業仕事を両立できないから子どもを産みたくても産めない、それが女性側からの少子化の原点にある。男性側にしたら子どもと接触したくても長時間労働で、明治民法的な男役割にとらわれた父親たちは、子育てへの参加を拒否する。その機会もなく経験がない。それが明治軍国主義的な、男中心社会の価値観でもあった。今だに日本ではこの様な価値観が根強い。

戦後60年経っても、戦後の社会、子ども・女性軽視の男中心社会はかわらず、日本社会の限界だった。子産み・子育てを主張する利益団体はほとんどいない。団体化していないので、政治テーマになりにくい。子産み・子育ての問題は政治的要望・圧力につながらなかった。女・子どもの世界とされ、は政治の世界では無視され続けてきた。本当は社会全体の存続にかかわるにもかかわらず、、、である。

それゆえ、2006年に滋賀県の知事という仕事へ挑戦した。まずは地方自治から変えたいと。目の前のK県政はあまりに目先の男中心議会の利権主義に惑わされ、未来の滋賀の展望が見えなかった。新幹線の新駅計画も、ダム推進計画も、そして必要性のない大津市北部(旧志賀町)の廃棄物処分場も、県議会など政治家の利権がらみの政策だった。本当に市民・県民にとって必要な政策だったのか?

(4) 三つのもったいない政策は我が人生の集約

そこで、県政の矛盾と問題を暮らし言葉で集約した。それが「税金の無駄遣いもったいない」「琵琶湖の環境、こわしたらもったいない」「子どもや若者が生まれ育つ力、そこなったらもったいない」という三つのもったいない政策だった。私のそれまでの56年の人生、政治家の父と農婦の母からの教えを我が身に刻みこみ、その後の学問からの教えを埋め込み、滋賀県の未来への政治的なメッセージに集約した政策だった。

ありがたいことに滋賀県では、昭和49年、1974年、武村さんが知事になってから、草の根県政、琵琶湖政策が本格化した。そこで県独自の琵琶湖の研究機関「琵琶湖研究所」をつくることになった。昭和56年、1981年のこと、私はその準備室で初代の社会学・人類学の研究者として県職員として採用をしてもらい、琵琶湖と人びとの関わりを社会学的に探求をさせてもらった。そして1985年には「琵琶湖の価値を広く皆に知ってもらいたい」という思いから琵琶湖博物館の企画を提案し、参加型博物館として、10年かけて1996年に琵琶湖博物館を建設、オープンにこぎつけた。

滋賀県の環境政策や地方自治の根底にあるのは「草の根自治」である。国の法律や国の予算は、今の日本のような税制度(国が税金の6割を集めるが、行政の仕事の6割は地方)下ではもちろん大切だけれど、地域のことをもっともよく知っているのは地域の住民であり、地域の行政マンである。地域の住民目線で、まさに草の根自治を追及することが、住民にとっての最大多数の最大幸福につながるはずだ。でもこれも黙っていては壊されてしまう。皆で自覚して、意識して守ろうという住民の皆さんの覚悟が必要です。

(5)地方独自政策がますます難しい今をどう切り抜けるか?

2016年9月の今、急速に国が地方自治まで支配しようとしている。2014年の滋賀県知事選挙での「反嘉田」を標榜して、「嘉田は滋賀県の恥」と公言してはばからない原発推進官僚知事候補を送りこんできた中央政府。基地の固定化をはかろうとする沖縄。

原発問題、基地問題などがその典型です。なぜ今、原発政策に慎重な姿勢を示していた新潟県の泉田知事が次の知事選挙への出馬を撤回せざるを得なかったのか?「新潟日報」との確執、これだけが理由でしょうか。この裏には何か大きな力が働いているのではないでしょうか。

今日はここまででお約束の1時間を使い尽くしてしまいました。もしよければ、ということで「第2部」を次回に?とお尋ねしたところ、会場から「頼む」、また主催者の皆さんからも「お願い」ということだったので、あとは次回ということにさせていただきました。

次回は嘉田自身が知事時代に進めようとした子育て・女性政策、河川・環境・琵琶湖政策、防災・原発政策などを紹介しながら、なぜ国民の願いと思いが国の政策に届きにくいのか、地方自治の本来のあり方も含めて、皆さんとともに考えていきたいと思います。

後から主催者と相談をして、この続きは12月18日(日)とさせていただきます。時間はまた後ほどにお知らせさせてもらいます。

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