1月12日 午後一番に「彦根市二十歳のつどい」に参加、ひとことお祝いのご挨拶をさせていただきました。ひこね市文化プラザには800名をこえる二十歳の若者が、振袖姿や背広姿であつまりました。振袖のお一人おひとりの髪型や髪飾りもうつくしく思わず見入ってしまいました。実行委員会の委員長挨拶など、若い人たちの主体性が埋めこまれた爽やかな会合でした。後半には、ヒコニャンも登場して、懐かしい校舎や学校行事写真満載の映像記録も公開、参加者kらは喜びの声も!。今日、夕方には、大中の干拓地の県道沿いのコーヒーショップ「Wind Rose」に立ち寄りました。紹介をさせていただき、大中の湖の干拓史についても言及させていただきます。1月12日。(1600文字、また長いです)
帰路には、かねてからお誘いを受けていた近江八幡市大中町のWind Roseを訪問。Motoyuki Komachiさんご夫妻が、びわ湖周辺地域で場所をさがしまわって、「大中グリーン工房」の田畑仁志さんと出会ってようやく実現したお店で、皆さんが精魂込めて開かれた空気感が漂っている爽やかなお店です。大中で生産されたカブラなどの野菜シチューの軽食と、タンザニアやコスタリカなど、銘柄もののコーヒーが楽しめます。ビワイチ利用者が休憩できるようビワイチルート沿いです。夏にはヒマワリ、秋にはコスモスと季節毎に美しい花を咲かせてくれる「大中グリーン工房」の敷地内で、県道を通る皆さんには大変分かりやすい場所です。
「大中グーン工房」と大中干拓の歴史は、田畑多三郎さんが書かれた『私の開拓史―運命の入植―』(自家本、2012年発行)に詳しく記されています。近江八幡の野村町で昭和8年に生まれ育った多三郎さんは、次男なので村外に仕事をさがし、京都や大阪で運送業などをしていた矢先、大中の湖を干拓して農地開発をする国営事業の入植に応募して、昭和42年に入植。奥様も野村町出身で、ご長男さんが2歳の乳飲み子を抱えての入植。各地から集まってきた72世帯が協業で沼地の干拓をしながら米作りをし、土地造成をして西部地域の住宅地もつくり村づくりを進めてきた様子が多三郎さんの著作には大変くわしく記されています。
琵琶湖周辺の内湖を、食料不足の対策として農地に干拓しようとしたのは昭和10年代で、その中でも「大中の湖」は1145ヘクタールの最大の干拓地でした。大中の湖は琵琶湖固有種の産卵場としても大変重要でした。沖島の漁師さんの話によると琵琶湖の魚が大きく減ったのは大中干拓によると今も言われています。しかし昭和10年代からの日本の食料不足は深刻で「魚よりも米」という国政の方針のもと琵琶湖辺の内湖はつぎつぎと農地に変えられてきました。その中でも大中の湖干拓は最大でまた最も遅い干拓地で、実は昭和40年代に干拓が完成した時には、すでに日本は米余りの中、減反政策もはじまっていました。それで、米だけでなく近江牛などの畜産や大カブやスイカ、トマトなどの野菜産地にも成長してきました。
干拓面積は1145ヘクタール、昭和39年に干陸化され、昭和41年から三つの集落に分かれて、各集落72戸ずつ、合計216戸が入植しました。入植1戸あたり4haの農地が割り当てられました。しかし、区画によっては、腰までつかっての田植え作業を強いられる軟弱地盤もあり、大半の入植者にとって苦難の連続となったようです。大中の湖干拓の歴史は、行政や技術者側の歴史は比較的たくさん残されていますが、入植者の暮らしや村づくりの記録は意外と少ないです。
今回出会った田畑多三郎さんの記録は、そのような意味で、まさに入植当事者の暮らし、家族、そして神社や公民館などの村づくりの記録が当事者目線で語られていて大変心強い地域史となっています。近江八幡市史でもここまで当事者目線では扱われておりません。また大中の湖干拓は、西部は近江八幡、南部は旧安土町(今は近江八幡市)、東部は旧能登川町(今は東近江市)で、地域も分散しており、まとまった歴史は今のところ見当たりません。
今まだ第一世代の皆さんのご苦労を聴いて育った第2世代が現役の間に、「大中干拓:地域の生活と環境の歴史的変遷」のような調査研究を、地元住民の方たちの記憶と語りを柱に、当事者目線で作り上げる必要があるのでは、と今日強く思いました。これこそ琵琶湖博物館の仕事かもしれません。また学芸員の皆さんに相談してみます。