Facebook 2024年9月5日 豊郷町の「龍ケ池用水」が滋賀県で初の「世界かんがい施設遺産」に認定

9月4日の京都新聞に、豊郷町の「龍ケ池用水」が滋賀県で初の「世界かんがい施設遺産」に認定という記事がのりました。かねてから、豊郷町には明治から大正時代につくられた地下水揚水施設がいくつもあり気になっていました。ちょうど彦根市への出張がはいっていたので、緊急だったのですが、豊郷町役場に連絡をとらせていただき、清水純一郎総務課長、加藤直子社会教育課学芸員、そして地元石畑地区の伊藤元和農業組合長にご案内いただきました。伊藤定勉豊郷町長と龍ケ池揚水組合の村岸善一代表は今、オーストラリアでの授賞式出席でお留守でした。皆さん、急な要望に対応いただき、ありがとうございました。9月5日。(1700文字です、写真も多いです。微笑)。
米の端境期をむかえて各地の店から米が消えてしまいました。家庭ではもちろん、給食や食堂でも米不足に気をもんでおられる方も多いのではないでしょうか。不足に直面して改めて、米作り農家への感謝とともに、米作りを可能にする歴史的に水利システムを作り上げてくれた先人の努力に感謝です。
今から1300年以上昔の律令時代から近江は畿内の米どころでした。奈良や京都、江戸時代以降は大阪という都市部の米需要を賄うために近江では、流域山地の水源涵養力を超えて過剰に水田を開発してきました。水田面積1に対して山は6倍必要と言われてきました。しかし湖東や湖北では1対3しか山地がありません。それゆえ湖東と湖北は常に水不足に悩まされ、上下流の水争いが起きました。湖東平野の豊郷地域も水不足常襲地域でした。番水という仕組みもありました。
そんな時に明治維新以降、近代的な地下水くみ上げ技術の情報が滋賀県に届きます。村のリーダーたちは、自前でイギリスとやり取りをしながら、石炭の蒸気ポンプを輸入して、日本で初めての地下水くみ上げ施設「龍ケ池(たぐがいけ)揚水」をつくりました。蒸気ポンプだったので、赤レンガ造りの煙突が今も残されています。大正時代に電化されています。
行政の支援はほとんどなく、費用も技術も石畑という村落独自で明治42年(1909年)に事業に着手。大型重機もなく、まさにもっこ担いでの手つくりの大工事です。当時の写真が残されています。7m四方の石積堀の真ん中に12m近くの掘り込みのある地下水くみ上げ施設が完成したのは、大正2年(1913年)です。石はもしかしたら琵琶湖対岸の比良山から、と疑問。これからの調査が必要です。
当時の記録をみると揚水機場の効果が4点指摘されています。①干害を回避して安定的収穫、②二毛作の拡大、③副業への手間の転換、④青年が地域に残る。見事な村落自治です。大正時代には蒸気動力から電化をして、今まで安定的に水供給をしています。伊藤元和農業組合長は龍ケ池のおかげで、石畑の農業用水使用料は他地域と比べて少なくて今も喜ばれているということです。特に琵琶湖逆水地域は琵琶湖から延々と逆水している施設維持と電気料金が課題となっています。
「世界かんがい施設遺産」は建設から100年以上が経過し、農業のみならず地域の発展への貢献度が高く、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を認定・登録するものです。世界では179施設、全国では54施設ということですが、滋賀県では初めてです。日本の他の施設は農業用水路やため池などです。地下水くみ上げ施設は龍ケ池がはじめてです。
ポンプ場の建物の入り口にも手作りしめ縄が飾られています。毎年お正月前に皆で手作りするということです。龍ケ池の敷地には、昭和8年に勧請したという雨井神社の水神の森も佇んでいます。水神さんにも豊穣な水と、安寧な米づくり、お祈りさせていただきました。
豊郷町は、豊郷小学校が「軽音の聖地」として、全国から若い人たちが集まってくれます。豊郷町には「龍ケ池」揚水以外にも「砂山池」「北池」など明治時代の揚水機場があります。米づくりも聖地です。そして、伊藤忠商事の設立者、伊藤忠兵衛の生家もあります。地域の子どもたちが、明治の先人の努力と思いを知ってほしい、近江の聖地でもあります。
今回の遺産認定には、関西大学の林倫子さん達の調査研究の成果が大きく貢献しています。揚水機場の三次元立体図の作成や、歴史的資料の整理など、研究者の皆さまにも感謝です。清水純一郎総務課長さん、学芸員の近藤直子さん、伊藤元和農業組合長さん、ありがとうございました。
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