8月19日-20日、熊本県立大学の島谷幸宏特任教授がリーダーで、滋賀県立大学の瀧健太郎教授や東京大学の蔵治光一郎教授などがサブリーダーを務める「地域共創をめざす流域治水」グループが、琵琶湖周辺での伝統的な「自然環境と人間社会」の共存の知恵と工夫が生きる湖西と湖北を訪問くださいました。全国から総勢40名を超える研究者が参加。このプロジェクトの起源は2020年7月の大水害に見舞われた熊本県球磨川流域で、災害後においても持続的な地域を構築するために、大学や民間企業、地方行政機関などが協力する組織をつくり、10年間で20憶円というJST(科学技術振興機構)の長期的プロジェクトがはじまり、今、全国展開もすすめています。別名「緑の流域治水」とも呼ばれています。若い大学院生などがたくさん参加しており、未来に希望がもてるフィールドスタディとなりました。ご準備いただいた皆さん、ご苦労さまでした。8月19日だけお付き合いさせていただきましたのでその部分だけ写真を中心に紹介します。8月20日。(1800文字、長いです、スミマセン)
19日には「流域治水政策発祥の地」ともいえる滋賀県の比良山系から湖岸につながる伝統的な治水や利水の仕組みを案内しました。1000メートルを超える急峻な比良山脈の麓に広がる集落では、古代より花崗岩の山地からの土砂災害で悩まされてきました。災害を防ぐと同時に農業や生活用水を確保するために、暴れる巨大な石や土砂を積み上げ、伝統的な石積み堤防「百閒堤」や石積みの間から流れ出す清水を活用する「石積み水路」をつくってきました。特に「百閒堤」は、重機のない江戸時代末期に、人力だけで積み上げてきた巨大な堤防で、土砂災害を防ぐと同時に、石の間に水を集めて、用水確保をしてきました。
足元の南比良、北比良、南小松地域では、米つくりとともに、石を切り出し、琵琶湖上を湖東や湖南、京都まで運び、暮らしを成り立たせてきました。京大の落合知帆さんや、南比良ふるさと絵屏風をつくってきた南比良地区の住民の皆さんが案内下さいました。久しぶりに私も昭和30年代の暮らしぶりを絵にした「南比良ふるさと絵屏風」の現物を見せていただきました。百閒堤から流れる水路の水車や、山裾の石積みのしし除けや、四季にわたる水田耕作、そして浜辺での地引き網や投網、魚つかみの鉢づけとともに、家ごとに浜に張り出していた洗い場「橋板」も描かれています。この絵屏風のアイディアと指導は滋賀県立大学の上田洋平さんです。今、我が「比良浜橋板」もふくめて大津市北部の橋板再生を滋賀県から許可をもらえたのも、この絵図による過去の橋板存在が証明されたからです。
京都の落合さんが案内くださった荒川集落は、集落全体が、石積みでまさに輪中のように囲まれ、集落を土砂災害から守っています。同時に石積み水路から清水(しょうず)が湧き出ていて、家いえ毎に、洗い場やカバタが設置され、水道がはいる前はもちろん、今も洗い場として活用されているようです。集落を出た水路は下流の水田を潤しています。荒川集落は、琵琶湖畔からかなり離れているのが南比良や北比良、南小松とちがいます。この湖との距離は、石切りと石出しを生業としていたかどうかで違いがあるようです。南比良、北比良では山から花崗岩を切り出し、それを港から丸子舟で切り出し、湖東や湖南、そして京都まで運んできました。
夕方のワークショップでは、なぜ滋賀県で流域治水政策が始まったのか、若い人むきにミニ講演をさせていただきました。水の恵みも災いもセットで自己管理をしてきた「近い水」思想に根差した村落共同体の資源利用の仕組みの歴史は古代律令制の時代からの歴史があること。その成り立ちを解説し、近年の都市化の中で過去に水害を受けた地域に新興住宅などがたくさんでき、その住民の人たちは過去の水害を知らずに、「リバーサイドニュータウン」「ドリームランド」などと名付けられた地域に暮らしている、その危険性を行政として知らせ、ハザードマップづくりをして、水害被害を最小化するために滋賀県として「流域治水推進条例」をつくってきたことなどを紹介しました。
20日は、湖北の姉川や高塒川周辺の霞堤や「むら丸ごと流域治水」にかかわる集落などを瀧健太郎さんが中心となって案内くださいました。