Facebook 2016年10月21日

「橋板」ってご存知ですか? 琵琶湖辺に先祖代々暮らしてきた人たちが暮らしの水を湖から汲み、洗い物をして、子どもが水と戯れる、そんな「近い水」の暮らしの生活文化財です。その橋板づくりの材料探しに、比良の地元の皆さんと秋本番の山にはいりました。10月21日。(また長いです)。

琵琶湖の西岸は波がおだやかで、東や南に淡水の琵琶湖が広がり、琵琶湖が生活の場でした。昭和30-40年代に水道がはいるまで、湖水を飲み水に汲み、お茶碗を洗い、洗濯をし、まさに湖と人びとをつなぐ「かけ橋」でした。

昭和50年代に琵琶湖の生活調査をはじめた頃、私の心をとらえた水の文化の原点がこの橋板でした。当時、最も橋板が集中していたのが、マキノ町海津の浜でした。浜辺に30本以上あったのを数えました。知内浜や中庄浜、今津浜、そして南にくると比良浜や和邇浜にも、橋板はいくつも残っていました。水道が入る前はもっともっとあったはずです。それ以来、琵琶湖畔の橋板写真を探しまわりました。

昔の海津の写真探しをしていた時に出会ったのが、石井田幹二さんという写真家が写された、二人の女性が洗いものをする写真でした。着物姿から昭和10年代かと想像されます。ひとりは板の上でバケツをおいて衣服らしいものを洗っています。もうひとりは手前の浜で、タライにのって、やはり衣服らしいものを洗っています。このタライの底には、座布団が敷いてあって、膝の痛みを抑えた、と言うことを、後から聞きました。

今も海津には橋板が生きて使われております。今年、2016年4月の花見時に写した写真もあります。

今、大津市北部の比良浜から和邇浜まで、湖との近い暮らしぶりの記憶を取り戻し、次の世代につなぎたい、という熱い思いをもつ人たちが、「大津市北部 橋板文化を再生する会」をつくり、橋板づくりをはじめました。ここでの課題はふたつあります。ひとつは、琵琶湖は河川法でいう河川であり、管理者の滋賀県知事の許可が必要です。今、海津にある橋板は、私が知事時代の2007年に、高島市を通じて許可をだしました。

今、「橋板文化を再生する会」では、許可申請を準備しております。あわせて、橋板づくりの経験をもっている方がお元気な間に、現物をつくる必要があります。比良風の橋板は、広葉樹の自然木、特に又になっているところを切って、それを土台として、板を支える、「又木タイプ」です。一方海津のタイプは、木を組んでつなぎあわせる「組み立て型」ともいえるでしょう。

秋空が美しい10月16日、関家と渡辺家の子どもたちも交えて、経験ゆたかな仲間が、南比良の百閒堤の山にはいりました。「ほんまに、又木あるやろうか?」と心配しながら、皆で森の上をみあげては、「これは開き方が足らん、もっと開いてなあかん」「これはほそいで」「これは枯れているで」と山中を歩きます。そして、ちょうど適当な幅と太さの枝を探すと、のこぎり隊が木にのぼって、伐採。

このあたりは南比良集落の「村山」なので、村人ならば伐採は自由ということ。こうして、2時間ほどかけて、8本の又木を切りました。帰路、「これ運びたい!」と自分から手伝ってくれたのは元気な少年たち。二人組、と三人組、それぞれに重たい生木の又を、百閒堤の下流まで運びました。

村の人たちといっしょに山にはいると、土砂除けの石堤や、石積みのシシ垣、また山から村に引き込む水路など、いろいろな話をきかせてもらい、できるだけ子どもたちにもそのことを知ってもらおうと聞きとりです。昼食時には、杉でっぽうをつくってもらい、子どもたちは「ポンポン」はねて遊んでいました。

この先は、板にする大杉の伐採です。11月には、実現したいです。また報告させてもらいます。

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