Facebook 2024年3月30日 浜野アンコウ(安宏)さん、ようこそ、琵琶湖へ!!!

浜野アンコウ(安宏)さん、ようこそ、琵琶湖へ!!!
地、水、風、空、山、川、草、木に入っていく、溶けていく、なじんでいく、平和に生きる、戦わない、だけど、いつでもそこにいる、存在していることが平和のため、そんな琵琶湖にようこそお越しくださいました!3月30日。(長いです、1800文字)。
3月28日にオープニングなさった浜野安宏さんの琵琶湖辺、大津市下坂本の{HOUSE  OF QUEST}を訪問しました。リビングの前には左側から堅田方面の琵琶湖が広がり、大津市中心部から、右側に視線を移すと比叡山の峰みね、横には清浄な小川(四谷川)が流れ、ヨシ帯も残され、柳の木々の新芽がふきだそうとしています。対岸の大津の町並みも見渡すことができます。夏には琵琶湖花火は全体を見渡すことができそうです。小松明美さんといっしょに訪問しました。
浜野さんといえば、1960年代からメンズマガジンを発行し、時代の空気を先導し「フィーリング」という言葉を流行語にした方です。私たちの世代には『東急ハンズ』をプロデュースしたファッションメーカーとして存在感があります。同時に世界を駆け抜けて釣り師としてカナダのサケやアフリカのナイルパーチなども追いかける自然派でも知られていました。子どもの自然教育(共育)にも力を入れてこられました。私自身は2011年11月、知事現職の時に、私の恩師でもある琵琶湖研究所の初代所長であった吉良竜夫さんのお別れ会でお会いしていたのですが、じっくりお話をしたのは今日が初めてでした。
浜野さんが吉良竜夫さんに感謝をしているのは、1970年代初頭、インドネシアからの飛行機でたまたま臨席になった吉良竜夫さんが、浜野さんが手がけていた世界銀行関連のバリ島のヌサドウア地区開発計画で、ヤシの高さ以上の建物を建てないという提案の後ろだての意見を生態学者としてだしてくれたという。そこから吉良先生を尊敬しておられ、2011年の大津でのお別れ会にお越しいただいたということでした。浜野さんの人とのつきあいの深さ、長さ、に感動です。『自由無限』の自己省察の本にも影響を受けた人のリストがあり、そこに吉良竜夫さん、加藤登紀子さんなど私にとっても大変身近な方が登場します。
これまでいわば世界の町並づくりや映画づくりで、80冊以上の書籍や映画をつくっておられるということ、そのうちの3冊をいただき、今日改めて読ませていただきました。昭和16年に京都市の堀川沿いで生まれ育ち、大学は日本大学の映画学科にはいり、そのあと、ある意味世界を相手にサイケデリックなアートとファッションの世界を先導してきた浜野さんが、今、80歳をむかえて「先祖返り」の場として、琵琶湖辺を選んでくださったということ。浜野さんの言葉を引用させてください。
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80歳になった時、71歳で他界した父への強い尊敬の念が募ってきた。あれから2年、私はまず父の自然観、修験道、比叡山延暦寺で得度した天台宗修験道とその教え、琵琶湖沿岸下阪本のある明智光秀の菩提寺である西教寺と城跡へと導かれ、自分の道『私の道』として日本人が持つべき精神支柱を『神道』と『修験道』をしっかり確立して世界に広めることが私自身のなすべき使命と考え始めた。そして、地、水、風、空、山、川、草、木、入っていく、溶けていく、なじんでいく、平和に生きる、戦わない、だけど、いつでもそこにいる琵琶湖。そして「釣極道」の自分を育ててくれた琵琶湖、そこを終の棲家に、と決めた。
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そして先週、九州の川辺川ダム、石木ダムの問題で現地訪問し、また長良川河口堰問題も注目していると言ったら、1970年代から、浜野さんは長良川河口堰に反対をしていて、当時、加藤登紀子さんともいっしょにイベントをした、という記録を著書の中から発見!加藤登紀子さんがプロデュースしている「周航するびわ湖音楽祭」の紹介をして、近いうちに加藤登紀子さんを、浜野ハウスにお連れすることを約束して、お別れしました。
浜野さんの絵と写真、東京渋谷界隈やイタリア、ベニス、そしてパリのストリートににぎわう人の流れ、人、人、人が大好きという繰り返しくりかし迫ってくるにぎやかなストリート文化をみながら、どうも浜野さんにとっては川にも、魚、魚、魚、と生き物が溢れてほしい、という思いが通奏低音として共通しているのかもしれません。「山川草木悉皆成仏」、比叡山最澄の教えです。そして原点は「質素な生活」「生活探検」、元祖探検家として共感します(微笑)。
琵琶湖は、多くの人たちを、まさに過去と未来、そしてローカルとグローバルをつないでくれる、まさに大きな器です。うれしい出会いでした。
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