「斎藤幸平さん琵琶湖・滋賀県案内(その2)・高島市ビワマスの里知内にて」。斎藤幸平さんの資本論研究の中で、マルクスが、前資本主義社会の共同体による「資源循環」や「社会的平等」の原理を、西洋社会においても高いレベルで導入できないかと思索していたことがわかってきました。それを斎藤さんは、「脱成長型のコミュニズム、コモンの世界に移行しよう」と現代的に主張しておられます。もちろんマルクスは脱成長という言葉は使っていないし、気候変動の問題を論じていたわけではありませんが、前資本主義時代の共同体の仕組みを単に遅れていると無視するのではなく、未来にむけて人間と環境の共生の仕組みとして学ぼうという姿勢をもっていたようです。私たちが鳥越晧之さんをリーダーとして、1980年代から「生活環境主義」を主張し「環境共存の社会学」を求めてきた研究意図にも通じるものでした。知内村案内をご紹介します。12月27日、また2000文字(長いです、すみません)。
斎藤さんたち一行をまずは知内地区で建築業を営む本田進さんが経営する「ViWa-びわ」コテッジにご案内。ここでは近くの海津漁業者の中村清作さんが材料を提供し、今津の「うはる」さんが料理をした「びわ湖まるごと弁当」をいただく。ビワマスはもちろん、氷魚(アユの稚魚)、イワトコナマズ、ニゴイなど地元でもなかなか口にはいらないご馳走に感謝です。中村さん、本田さん、ありがとうございます。この食事交流会には「針江のんきいファーム」の石津大輔さん、海津のフナずし老舗「魚治」の「湖里庵」主人の左嵜謙祐さん、地元で私たちの地元教授だった故中川太重さんのお孫さんの中川知香さん、ほんだ建築の北口智貴さんも参加くださいました。
1980年代から、マキノ町知内村に注目し、琵琶湖辺の村落の資源利用の仕組みの共同研究をさせてもらい、「環境共存の社会学」がここから育ってきました。なぜ知内村だったのか、理由は二点。ひとつは、琵琶湖と知内川と水田と周囲の山という多様な漁業・農業資源を地元で地域共同体として自主管理してきた地理的歴史的背景です。二つ目は知内村には、江戸時代半ば(延享年間)から250年以上、村のリーダー(昔は庄屋、今は自治会長)が書き続けてきた「村日記」があり、日々の農業生産や河川漁業のありさまや時として起こる洪水被害なども克明に記録されており、今まで大事に保存されてきたことです。
本田さんのお心づくしの「薪ストーブ」を囲んでの交流勉強会ではまず、斎藤幸平さんが「なぜ日本の村落共同体に注目するのか?マルクス晩年の研究から」という内容で、書籍で展開されてきた問題意識を披露くださいました。その続きで、私の方から、「日本の水田農村の総合性と『水と人の環境史』に埋め込んだ農漁複合の資源利用と水害対策」として、知内村での水利用、漁業資源利用、そして洪水対策などについて細かに紹介しました。今回の勉強会のハイライトは、立命館大学の鎌谷かおる教授による「歴史的研究者の視点から考える「自然と人間の関係」」という大変包括的でかつ説得的な講演でした。
私たちが知内村記録の内容を社会学的に定性的に分析したのに対して、鎌谷さんは、2001年から知内村日記にくわえて、江戸時代からの各種文書を徹底的に定性的かつ定量的に分析しました。2010年以降、総合地球環境学研究所の文理連携研究の一環として、数千年にわたる気候変動のデータに即して、近世の農業生産額などを歴史文書に即して定量的に分析して貢献。その上、大津市歴史博物館の高橋大樹さんたち、若い人たちも巻き込んで「村の日記」研究会を地元の知内地区で展開し、これから知内区誌をつくるお手伝いをする、ということ、研究者の地域貢献としても見事です。
明治時代初期、近江水産翁といわれた中川源吾さんが明治16年に知内川や琵琶湖のビワマス資源の保全のためにつくった村立養魚場が今も継続してビワマス稚魚の孵化事業を続けています。23日には孵化場の上野嘉之次長さんにご案内いただきました。ありがとうございました。また全国的に有名になった「メタセコイヤ」の雪景色を見学し、知内の人たちの昔の燃料山あたりを訪問しました。今森光彦さんが「やまおやじ」と名付け、大きな握りこぶしのように成長する広葉樹です。ここにはカブトムシやクワガタが集まってきます。
昼近くには、海津の魚治さんを訪問。2018年9月4日に関西に上陸した台風21号で「湖里庵」が壊滅的に被害をうけました。その被害をきっかけに左嵜さんは琵琶湖風景をまるごと楽しめる新しい湖里庵をつくり、またコンクリートで覆われていた石積みを元にもどし、「再生プラス創造的復旧」をしておられます。
この後、比良浜の我が家の橋板で、琵琶湖水を飲む「通過儀礼」を経て、琵琶湖博物館に伺いました。(その3)で紹介させていただきます。