7月2日には、大津市の「膳所焼」の窯元を維持している埼玉県出身の同郷の柴山哲治さんと、近江が誇る日本画家の山元春挙さんが大正時代に膳所に建てた「蘆花浅水荘(ろかせんすいそう)」を訪問し、春挙さんのお孫さんの山元寛昭さんに荘内をご案内いただきました。「蘆花浅水荘」に込められた春挙さんの芸の魂と琵琶湖愛に触れた感動の時間でした。夕方には琵琶湖博物館へ。琵琶湖の魚に魅せられ2歳から琵琶湖博物館に通い詰め、今は高校生となった黒川琉伊くんが出版した『はじめてのびわこの魚』(能美舎、堀江昌史社長)、の原画展へ。1990年代初頭、琵琶湖博物館構想時、ゼロから共につくりあげてきた高橋啓一館長と共に、博物館内に溢れる親子連れやカップル連れの皆さんの姿に改めて力をいただきました。なつかしく、うれしい時間でした。また長いです(2000文字)、7月2日。
山元春挙さんは明治4年に膳所に生まれ、15歳で、京都画壇で一等賞を受けるほどの画人でした。大正3年から大正10年にかけて、膳所の琵琶湖岸に別荘の蘆花浅水荘の建築を行い、芸に生きる人たちの交流の場を目指したようです。大正期に、膳所藩の伝統でありながら途絶えていた膳所焼の復興を目指し、岩崎建三らと新窯も開いたということで、柴山さんが受け継がれた膳所焼はここで復興されました。
柴山さんにまずは膳所焼復興のために大正時代につくられた「登り窯」を見せていただきました。居間のしつらえの中に納まった焼口の裏には、まさにレンガ積みの登り窯が繋がっています。かつては多量の薪を使い、今は多量の電気エネルギーを使う焼き物をエネルギー循環型の焼き物にしたい、と柴山さんは言っておられました。地球規模の環境問題につながる現代的な大事な課題です。
蘆花浅水荘当主の山元寛昭さんは昭和18年生まれで、昭和8年に亡くなった祖父の春挙さんに直接会ったことはないという。ただ、今に残されている庭が直接に琵琶湖につながり、そこで魚つかみができたという。大雨の時には琵琶湖の水位があがり、コイやフナが庭の池に入ってきたという。今の「魚のゆりかご」のような庭園だったと。来客も琵琶湖から舟で入ってきたという。近江富士が借景として取り入れられ、まさに「琵琶湖全体をわが庭にしたい」という春挙さんの願いと思いが込められたのがこの庭という。縁側で春挙さんの思いに寄り添う語りが生きる至福の時間でした。残念ながら昭和41年に琵琶湖との間に県道ができて、琵琶湖と切断されてしまいました。
琵琶湖博物館に向かう湖岸公園では、日曜日の午後にしては意外と人かげが少なかったです。ただ、(ろかせんすいそう)にはいったとたん、家族連れやカップルで溢れています。雨の日は湖岸に遊びに来た人が琵琶湖博物館に逃げ込む、というのは定説だったのですが、今日のような極暑の日も、多くの人たちが暑さを逃れて琵琶湖博物館に逃げ込んでくれているようです。新しい発見でした。
黒川琉伊くんが出版した『はじめてのびわこの魚』(能美舎、堀江昌史社長)、の原画展はまさに、2月10日に突然壊れたビワコオオナマズ水槽の逆境をすくってくれる「救世主」です。1995年に開館した琵琶湖博物館では老朽化のリスクは避けられません。幸い人にも魚にも被害がなく、壊れてしまった水槽を今後どう再現、維持していくのか、その時に黒川くんの原画展を開催し、「みんなでつくろう水族展示」と、まさに参加型博物館の理念を活かして、「水族イラスト」を募集し、展示していくという企画が始まりました。専門家でなくていい、みんなが好きな絵を描いて展示しよう、といううれしい企画です。