Facebook 2023年5月18日 今日はわが誕生日。皆さまからのたくさんのお祝いメッセージに恐縮しております。感動です。

皆さまからのたくさんのお祝いメッセージに恐縮しております。感動です。ありがとうございます。滋賀県女性の平均寿命は87.6歳。まだまだ元気で、皆さんのために働かせてもらえそうです(微笑)。先日、未来政治塾の塾生が集まって誕生日を祝ってくれました。まずはその記念写真をアップさせてください。未来政治塾では34名の政治家が誕生してくれています。また今日はわが誕生日にちなんで、いささか個人的すぎますが、産み育ててくれた母への感謝も込めて母との思い出写真もアップさせていただきます。5月18日。(1600文字)。
私が埼玉県本庄市で生まれたのは1950年(昭和25年)5月18日、朝鮮戦争勃発直前。ちょうどその頃の写真があります。母の実家で出産した直後です。昭和27年秋、戦後の食糧難と没落地主の13人大家族の家事・育児・農業の過重労働で母は結核に倒れた。母の闘病日記『日々のなぐさみ S.W』と記した日記が2014年春に母の古い箪笥の底に敷かれた新聞紙の下から発見された。この日記はよほど他人の目には触れてほしくなかったのだと思います・・・。中をみると赤裸々な苦しみの日々。舅との確執や夫の浮気・・それにまさる子どもたちへの愛。私はライフヒストリーを聴かせていただき社会史を学ばせていただくことを半ば仕事にしていたのに、生前、何度聴いても口を開かなかった母・・・こんな苦しみの日々があったのだ。それも明治民法の家制度の元で、苦しみぬいた嫁として。そこに襲った結核です。
日記は、「昭和28年1月26日」から始まります。私はまだ2歳です。直前に「肺病病みは家をつぶす厄病、実家へ帰って直してこい。治療費は実家でもつべき!」と夫の父(舅)に言われ、婚家から追い出され、実家に帰された直後から始まります。8歳の兄と6歳の姉は婚家において、末っ子の2歳の私だけつれて実家に帰されたのです。その実家も11人兄弟の長女である母の下に10人の弟・妹がいたのです。決して安住の地であるはずがありません。
日記の最初の日。「由紀子 風邪を引き発熱38.3度。・・・自分に何のやましい点があろう。只々働いてきた今迄、何としても口惜しい。他人故に、何も親身になって世話をしてやることはないのだ。(父の弟・妹の洗濯・食事などの家事も母がしていたようだ)・・・過去十年間のこと走馬燈の如く思い起こされる」(昭和28年1月26日)。
「感冒気味の為か頭が痛い。人間なんて弱い動物だ。頭が痛い、気分が悪いと思うと先から先へと想像をたくましくして最悪のことまで考える。それならばそれで良い様なものの生への執着からか、死をおそれる。この天地悠久の流れの中に生を受けて二十年、三十年、長らえても大したことはないものを悟れぬ者のかなしさよ。由紀子は相変わらずよくならず。父親がいたなら医者へも連れていってやれるものを、家があるようで実際はないのと同じ不安な気持ち。哀れな親子、神様加護を授けて下さい。夕方になるも風止まず、由紀子と二人で(実家の)離れに寝るのも心細いようだ。征夫(兄)の感冒はどうしたやら、想い巡らせば果てしない。三人の子供の生長、これのみが前途のひかりである」(昭和28年1月29日)。
母の日記には、庭の樹木や花など、自然の記述が多い。身の周りの自然の移ろいを心深く味わっていたようだ。母といっしょに草取りをしていると母がいつも言っていた。「名前のない草はないよ、由紀ちゃん。これはホトケノザと言って、ちょうど仏さんが葉の上に座っているようにみえるだろう。これはヤエムグラと言ってね」と語ってくれた。草花の名前もよく知っていて、新聞紙の間にはさんで押し花などもたくさんつくっていた。
このあと昭和28年の10月13日で母の闘病日記はおわり、10月17日には、深谷の日赤病院に入院が可能となった。深谷日赤時代、私が父といっしょに母を訪問した写真がある。日赤での療養の効果があったようで、昭和30年代以降、母は健康を取り戻し、養蚕や野菜づくりに精をだして、父が当時はやりだした即席ラーメンの工場の経営をはじめ、経済的にも余裕をえて、昭和30-40年代に、兄妹3人の兄弟を大学までだしてくれました。
今日はこれでおわります。誕生日は、母と父、そしてご先祖さまへの感謝の日でもあります。今日は、思いがけず、孫6人が、それぞれにお祝いメッセージを送ってくれました。おばぁはまだまだみんなの未来のために頑張ります。特に、子どもたちの未来に安心を埋め込めるような、国としてすすめるべき家族法の改正や、災害対策は、国会議員としての私の仕事です。まだまだがんばります!
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