1月22日。滋賀県守山市に、新しい市長さんが誕生しました。森中たかふみさん(43歳)です。「びわ湖、守山が大好きで帰ってきました」「人、自然、琵琶湖、みんなが幸せなまちづくり」。20年前に総務省で公務員生活に入り、2008年から2年間守山市に出向して町づくりなどで仕事。そこでお子さんを授かり、2018年には滋賀県庁に戻り、商工労働部長や総務部長を経験。朝の応援演説で、私は「帰って来てくれてありがとう!」「一緒にビワイチ楽しみましょう!」と挨拶をしました。1月22日。(1500文字、また長いです)。
午前8時30分、選挙出発式。現在の宮本市長をはじめ、山田元市長、国会議員や周辺市長が応援に駆けつけ、応援演説リレー。選挙カーを送り出して丸一日。午後5時には立候補が締め切られました。ほかに立候補者がいなかったので森中さんの当選が午後5時にきまりました。
5時30分から「当選祝賀会」。朝と同様、宮本市長、国会議員、市長、支援者がたくさん集まり、「万歳三唱」、、、最初は、森中さん、奥さま、お二人ともご自分は頭を下げて、お礼の振る舞い。マスコミさんが「森中さん、手をあげて万歳して下さい」と促され、やり直し万歳。でも奥さんは今度も頭を下げていました。最後に舞台を降りるときに「お二人が頭を下げていたのは皆さんみておられますよ、よかったです」とこっそりお伝えしました。
森中さんは昨年の9月に総務省を退職して、まさに「退路を断って」市長選挙に挑戦。大変なご決意だったと思います。森中さんは「現場主義」で連日、守山市の町まちを訪れ、市民の声を聴いてFBで報告しておられました。その途中経過をしっかりフォローさせていただいていたので、これからの守山市をひっぱっていかれる森中さんに期待します。
3期12年の宮本市長の市政は見事な成果をあげています。私が一番気にしていたのは、2006年の私の滋賀県知事選挙での志賀町栗原の廃棄物処分場問題です。前任の知事が守山市を含めて湖南地域の市の一般ゴミを、琵琶湖大橋を超えて、対岸の志賀町栗原に運び、そこで県責任の産廃と市責任の一廃を合併処理して焼却場を建設する、という計画を2001年以降進めていました。これに2006年の知事選挙で反対をしました。
地元志賀町の町民の多くが、2001年に滋賀県が突然示した栗原の廃棄物処理場建設に対して「なぜあえて毎日琵琶湖大橋をこえて対岸の市から廃棄物を自分たちのところに運んでくるのか」とずっと一貫して反対運動を続けていました。志賀町長のリコール運動にまで発展しました。私も、志賀町で反対する皆さんの意識に「住民自治と環境正義の問題」として共感をして、知事選挙マニフェストに「栗原の廃棄物処分場計画は凍結・見直し」といれました。そして選挙で有権者の支持をいただき、栗原処分場は2007年に中止しました。
しかしその結果、守山市などは自前で廃棄物処分場を建設することになり、山田市長、その次の宮本市長にご苦労をおかけしました。2006年の中止以降、15年後の2021年10月に守山市の環境センター(廃棄物処分場)がようやく完成をして、私は2022年の9月にその場を訪問し、宮本市長に「政策変更でご迷惑をおかけしました」と謝罪しました。
どんな政策変更でも、必ず影響を受ける人たちがおります。2006年の私の知事選挙のマニフェストは「新幹線新駅」「滋賀県内の6つのダム」「栗原廃棄物処分場」、いずれも政策変更で多くの皆さんにご迷惑をおかけしました。
それで税金投入のある部分が節約できたとか、その税金を子育てや環境保全などの政策にまわせたとか、そのようなソフトの見えにくい結果を多くの人はなかなか評価しません。「約束やぶり」「政治家として破壊者」という汚名はいつまでもついてまわります。今でも「もったいないで嘉田は滋賀県をつぶした」と批判をいただいています。
私の喉の奥にひっかかっていた守山市の廃棄物処分場問題にひとつの方向がみえて、宮本市長とのこだわりを少しでもリセットできて、森中新市長との連携をすすめていけたら、と願っています。
守山が守っている山は「比叡山」のお山です。伝教大師の時代の「忘己利他」の精神で森中さんと連携をしていきたいと願っています。守山市民の皆さんのために!