熊本県、五木村に最初に伺ったのは今から24年前の1998年。当時、球磨川上流の川辺川ダム計画の必要性に社会的に疑問があがり、「東の八ッ場ダム、西の川辺川ダム」と問題視されていた。ちょうど河川法に環境保全という目的が追加された後で「、清流日本一」という川辺川にダムがどこまで必要かという議論が起きた。すでに水没予定の五木村中心部では集落移転が始まっていたが、学校の建物などは残っていた。その後、個人的に何度も五木村を訪問してきたが、今回は川辺川ダムに対する地元の方の意見を知りたいと寺嶋悠さんが企画した「夏の五木村・川辺川ツアー」に参加した。7月19日。
東京、愛知や熊本県内などから23名が参加。ツアーでは、五木村歴史文化交流館で、五木村の歴史や山での焼畑や川漁、獣狩などの生業展示、集落の社会構造を決めていた旦那衆の伝統など、コンパクトながら工夫された展示となっている。また「交流」という概念も取り入れ、図書コーナーや子どもたちの木製玩具遊び場やミニカフェも設置。好感が持てるミニ博物館となっている。
「山小屋」さんでの昼食は、山菜や鹿肉、アマゴなどのご馳走が美味しかったです。奥様の手打ちそばも素朴なおいしさでした。そして思いおこしました。そうだ最初に五木村を訪問した時、こちらの民宿で宿泊した! 山小屋さん近くの川辺川では、河原に降りて、水に浸かりながら、一口二口、水をいただきました。冷たくおいしい!!バス内で知り合った崇城大学の今井亮佑教授をお誘いしたら躊躇せず川水を飲んでくれました!今井さんは京都生まれで、うちの息子たちと同じ学校の卒業生とわかりました。奇遇です。
ツアーから離れて、泊まり込んで複数の地元の方からご意見もじっくり伺いましたが、昭和30年代には6000名もいた人口が今は1000人ほどになってしまった。ダム建設で水没の運命に晒された集落数は日本中で数千以上、人口数は数十万人になるかもしれない。でも川辺川ダムのようにこれほど多くの方の人生をこれほど長い間翻弄してきたダムは他にないだろう。
それだけにダムの是非を研究者として、また政治家として考え、意思表示するにはどうしてもダム建設に翻弄されてきた人たちの意見を行政やマスコミを通してではなく、直接に聴いて見るべきと長年考えていた。今日は二人の方からじっくり、ライフヒストリーとともに話を伺ったが、1966年に始まったダム計画からすでに56年。今、70歳近い人でもダム計画が始まった時は中学生。人生のほぼ全ての時期にダム問題が絡んでいた人たちばかりだ。それも集落内での意見の違いだけでなく、家族内部でも異なり場合もある。外からの大きな権力の力で、個人や家族の暮らしが大きく左右される。
その上水没予定者が五木村として公的に本体工事に同意したのが計画発表から30年後の1996年。その後、外の力で2008年に中止となり、また2020年の水害の後、計画が復活。そして今、法的手続きが進む、、、。たった1日や2日で何がわかるのか、といわば自己嫌悪に陥りながら、もっとゆっくり時間をとって伺いたいと今回は五木村を後にしました。この後、人吉市など、2年前の2020年の溺死者の皆さんのご自宅をそれぞれ訪問し、2年間の変化を追跡させていただきます。ここについては次回報告させていただきます。
ツアーを手配いただいた寺嶋悠さんと「旅のよろこび」ツアー会社の宮川和夫さんに感謝です。宮川さんの会社は前潮谷熊本県知事が推奨していたユニバーサルデザインの旅行会社で、とてもユニークな熊本県らしいツアー会社です。