「ファミリーヒストリー」というNHKの人気番組がある。私も大好きな番組の一つだ。東京で「奇跡の一本松」の、まさに樹木の巨大な根っこを見たその日に実家がある埼玉県本庄に移動。自分の家族の根っこに出会うような冊子「堀之内」を征夫兄が中心になってつくってくれた。私の母の庄田センは、本庄市北堀で「堀之内」と呼ばれてきた家に生まれ育った。その家屋敷の歴史を兄たちが調べ「堀之内」という130頁ほどの冊子にまとめ、4月17日に完成祝いの会に親族が集合。大河ドラマの「鎌倉殿の13人」を身近に感じる時間となりました。4月17日。(長いです、スミマセン2000文字)
「庄田」の先祖は鎌倉時代にこの地域で活躍した児玉党の荘小太郎頼家にまでたどれるということで、その流れで北堀地域に土着したのが庄田家だという(具体的な系図は不明です)。それゆえ多分、中世から周囲を堀に囲まれた「堀之内」とよばれる屋敷をつくっていたようだ。その荘小太郎頼家の墓がある宥勝寺にお参りして、ご住職の仏教学者の吉田宏晢(こうせき)様ご夫妻と副住職にご案内をいただきました。県指定文化財で由緒ある古刹です。境内には哲学者の「広松渉」さんのお墓もありました。吉田宏晢(こうせき)住職の親友であったようです。吉田信解本庄市長は吉田宏晢さんのご子息です。
なぜ、児玉党の武士がこの地で力を得たのか。それには水利組織の開発があったようです。米生産に必須の水。埼玉県北部には「九郷用水」という灌漑システムがあり、 古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から児玉党によって開削されたとする説などがある。九郷用水の地図を見ると、庄田の堀之内はちょうど九郷用水の最末端に位置する。水源は、神流川の神川町寄島で、渇水に悩む農民が祈願をして、出現した金の竜が曲がりくねって進んだ流れにそって水路を開いたという。最後は高台にぶつかり「のめりあがって」姿を消したという。それが北堀で東福寺となって北堀の墓地になっています。ここには今も「のめりあがり薬師さま」がまつられています。
一方、庄田センが嫁いだ渡邊家のある諏訪新田は、江戸時代に開かれた新田村で水がなくて畑作です(地図の青が堀之内、赤は諏訪新田)。穀物は陸稲(おかぼ)で麦。それゆえ渡邊の家ではぼそぼそした陸稲か麦によるうどんばっかり。ところが北堀にいくとおいしい水田の米が食べられる。子ども時代の味覚の記憶は重要です。庄田家の九郷用水開発の成果の水田米の生産構造は、私の幼児期の味覚の原風景に深くきざまれています(微笑)。それと堀に囲まれた庄田の家は、カエルをつかんで皮をむいてザリガニつりをしてバケツ一杯集めるとか、おもしろい水遊びがいっぱいできました。堀の横にはブナやカシなどの樹木がたくさんあり、木登りもおもしろかったです。
センの祖父の庄田種平は、明治20年代に今の東大の農学部を卒業し、農業技術者として各地を回ったようです。戦前からブロッコリーやトマトを北堀ではつくっていたとか。また庭には蝋梅など四季折々の楽しみとなる花木が植えられ、私が子ども時代の北堀は、米もおいしく、花木や野菜も豊富で遊びも楽しかったです。豚やヤギを飼って、農畜複合の多角農業経営もしていました。
それ以上に私にとっての北堀は、結核療養で苦しむ母と幼い私を支えてくれる天国のような家でした。昭和25年生まれの私ですが、直後に母は結核になります。昭和18年に渡邊の家に嫁いでから大家族で、戦後の没落地主の大家族をかかえて母は養蚕など過酷労働の中で当時は不治の病と言われれていた結核にかかります。渡邊の祖父が病で臥せっている母の枕元に包丁をもってきて「草むしりにいけ!」と脅かす、そんな地獄のような家でした。そこで嫁ぎ先の渡邊の家から、「肺病病みはいらない、離縁だ!」と医療費もなく昭和28年の1月に実家にかえされます。農家に嫁いだ女に人権などありません。
私が今、男女平等の社会をつくりたいと思う原点は、家制度の元で苦しめられた母の姿を目の前で見てきたからです。一方北堀では長女のセンの下には10名の弟妹がいながら、センの父母はセンと2歳半の私を母屋の横にある、種平おじいさんが使っていた離れを提供してくれました。その離れの建物は今も残っています。その当時、3歳の時の私の写真がありますが、着ているものはよれよれで表情はくらいです。当時のつらい心もちを母は日記に残していました。涙なしに読めない日記です。昭和28年10月には深谷日赤病院に入院できて、数年の闘病をへて母は結核から回復します。