Facebook 2018年5月19日

多くの皆さまから誕生日のお祝いメッセージをいただき、大変恐縮しております。ありがとうございました。お力をいただき、次への元気をいただきました。あさって5月20日は「第2回びわ湖音楽祭」の本番です。その準備に実行委員一同必死にあたっています。まだ少数ですがチケットはあります。電話で予約を下さい(090-1470-2387:嘉田)。5月18日(また長いです。いつもながらすみません)。

あらためて68年生きてきた人生をふりかえると、年をとればとるほど、自己の価値観形成の原点に思いがいたります。なぜ自分が今、女性や子どもの政治のあり方にこうまで深くこだわるのか、なぜ自分が今、琵琶湖水環境など、自然と人間のあり方にこうまで深くこだわるのか?母の人生観、母の価値観が私の中に脈々と生きているように思えてなりません。

子どもは自分の生まれる親も時代も生まれる環境もえらべません。そのような意味で個人であっても社会に埋め込まれた社会的存在です。あえて、ここは私の人間関係の記憶の原点を辿りながら、私の母が経験した「明治民法的な家制度の呪縛」にとりつかれた祖父と夫の家族による「嫁いびり(今でいういじめ)の実態」を辿りたいと思います。

家族の恥かもしれませんがここは個人の問題という以上に時代記憶でもあるはずです。嫁をいびってきた舅も明治民法的な男尊女卑の価値観を叩き込まれた社会的存在だったはずです。この投稿を読んでいただく、同時代に生きた多くの男女、私たちが経験してきた時代精神とも思えます。

そしてこの男尊女卑の思想は、今のこの平成30年の安倍政権中枢に引き継がれています。麻生副総理のセクハラをめぐる発言は明治民法思想の延長でしょう。「セクハラという法律はない」という麻生副総理の発言を「閣議決定」したという。時代錯誤もはなはだしい。だからこそ社会の根本的価値観を変える必要があるのです。

1950年、昭和25年生まれの私の最初の記憶は、戦後の食糧がない時代、養蚕農家の過酷な農業労働と夫の父母、夫の弟妹と3人の子供、合計13名もの家族の家事育児の中で結核を患った母の無念の人生の共有体験からはじまります。大正9年生まれの母は、昭和18年の結婚、19年、21年の子どもふたりの出産のあと、三人目の私を産んで直後、結核に冒されました。

ちょうどその頃の母の闘病日記『日々のなぐさみ S.W』と記した日記が4年前の2014年春に母の古い箪笥の底に敷かれた新聞紙の下から埼玉の実家の兄により発見されました。S.Wは、「渡辺セン」という母の実名のイニシャルです。母はその18年前の1996年9月に亡くなっています。母の衣類などを整理していた兄は見落とす所だったという。この日記はよほど他人の目には触れてほしくなかったのだと思います・・・。

それだけに表に出すことに躊躇して4年・・・。これは個人の記録というよりまさに時代の証言のノンフィクション。「不治の病」と言われた結核が、ストレプトマイシンなどが発明され、「直る病気」になりつつも、高価な医療費を出せる経済力のない家族の苦しみ。農家である我が家には保険の後ろだてはなかった。

市町村運営方式により、官庁や企業に組織化されていない日本国民全てが「公的医療保険」に加入できる国民皆保険体制が整えられたのは昭和36年(1961年)です。国民健康保険制度がない中での結核を患う農家の若嫁の苦悩。兄と姉も「母が命をかけて守りたかった子どもへの愛情や自然への愛を今となっては表に出すことを母も天国から喜んでくれると思うよ。由紀子の責任で表にだしたらどうか」と言ってくれました。

母が元気だった時代、「ライフヒストリーの語り」を各地で聞き出して学者として生活史を生み出してきた私自身、何度も母に尋ねましたが、寡黙な母は何も語ってくれませんでした。しかしこの日記の何と饒舌なこと!人間としての苦しみを背負った母の思いが、鉛筆で書かれた日記の一文字、ひと文字に込められていました。

日記は、「昭和二八年一月二六日」から始まります。直前に「肺病病みは家をつぶす厄病、実家へ帰って直してこい。治療費は実家でもつべき!」と夫の父(舅)に言われ、婚家から追い出され、実家に帰された直後から始まります。八歳の兄と六歳の姉は婚家において、末っ子の私だけつれて実家に帰されたのです。その実家も十一人兄弟の長女の母の下に十人の弟・妹がいたのです。決して安住の地であるはずがありません。

「由紀子 風邪を引き発熱38.3度。・・・自分に何のやましい点があろう。只々働いてきた今迄、何としても口惜しい。他人故に、何も親身になって世話をしてやることはないのだ。(父の弟・妹の洗濯・食事などの家事も母がしていたようだ)・・・過去十年間のこと走馬燈の如く思い起こされる」(昭和28年1月26日)。

「感冒気味の為か頭が痛い。人間なんて弱い動物だ。頭が痛い、気分が悪いと思うと先から先へと想像をたくましくして最悪のことまで考える。それならばそれで良い様なものの生への執着からか、死をおそれる。この天地悠久の流れの中に生を受けて二十年、三十年、長らえても大したことはないものを悟れぬ者のかなしさよ。由紀子は相変わらずよくならず。

父親がいたなら医者へも連れていってやれるものを、家があるようで実際はないのと同じ不安な気持ち。哀れな親子、神様加護を授けて下さい。夕方になるも風止まず、由紀子と二人で離れに寝るのも心細いようだ。征夫(兄)の感冒はどうしたやら、想い巡らせば果てしない。三人の子供の生長、これのみが前途のひかりである」(昭和28年1月29日)

「赤城おろし」の吹きすさぶ関東平野の冬は厳しい。雪は少ないが、砂嵐のような風の厳しさは経験者しかわからないだろう。母が暮らしていた場所は実家の母屋の横にある「蔵付きの離れ」である。今もまだ母の実家にはこの建物は残されている。2018年のお正月、久しぶりに訪問した時の写真がある。母の日記に出てくるおもとや南天は今もある。日記には日々、雨、風、雪と天候の変化が細部まで書きこまれている。2月25日には次のような記述がある。

「しっとりと雨に濡れた松のみどり。春とはいえ、まだ木の芽はしっかりととじられた落葉樹の間に混じって、山茶花、南天、ひいらぎのみどり、蝋梅のうす黄色のかれんな花、まだ草の萌え出ない地面に、おもとのみどりがひときわ目立つ。しとしとそぼ降る雨、春雨ともいいたい。気温の厳しさ。病む者にとって唯一のなぐさめは庭の木々の風情である。」

母は身の周りの自然の移ろいを心深く味わっていたようだ。母といっしょに草取りをしていると母がいつも言っていた。「名前のない草はないよ、由紀ちゃん。これはホトケノザと言って、ちょうど仏さんが葉の上に座っているようにみえるだろう。これはヤエムグラと言ってね」と語ってくれました。草花の名前もよく知っていて、新聞紙の間にはさんで押し花などもたくさんつくっていました。

さて、昭和28年の5月18日、65年前の私の誕生日の記述。どうあるでしょうか。その数日前から私はハシカをわずらっていたらしくて、高熱がでていたようだ。その由紀子を実家において、長女の純子と長男の征夫が気になって町の本庄小学校まで出かけたようだ。具体的記述は以下のようにある。

「母にこの子(熱がある由紀子)を置いて、といわれたが日を違えてもと思い、出掛ける。純子はと思い、学校のそばまで行ったら丁度お父ちゃんが純子をのせて送ってきたところだった。そこで話をしていたら征夫の方の先生が来かかり、純子のかえりのこと色々話あっていたら純子の担任の先生もみえるし、矢野先生もこられ、子供達のこと、いろいろ頼んで別れた。

由紀子はおとなしく寝ていたらしい。お父ちゃんの土産の下駄をはくといって駄々をこねて困った。昨日よりはよくなったらしい。お父ちゃんが資金をこしらえてくれるというのでまずは安心。だが体の調子が思わしくないと療養についていろいろ迷ってくる。」

ここに「由紀子誕生日」の記述はひとつもない。実は母の日記の中に、私の誕生日も兄も姉も誕生日の記述はない。そういえば、私自身の母との暮らしの中で誕生日を祝ったことも誕生日に言及したことも記憶にない。誕生日を祝う習慣はやはり近代化以降なのだろうか?

このあと昭和28年の10月13日で母の闘病日記はおわり、10月17日には、深谷の日赤病院に入院が可能となった。深谷日赤時代の写真が二枚ある。若かりし時の母の貴重な写真だ。この続きはまた次の機会にさせていただきたいと思う。大変個人的な時代証言物語におつきあいいただき恐縮です。ありがとうございました。

 

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