熊本県八代市つる詳子さんが球磨川では「かつては大水はあったけど水害はなかった」という大事な証言を紹介くださいました。昭和30年代に荒瀬ダム、瀬戸石ダム、市房ダムができる前の、いわば近代化以前の球磨川の大水に人びとがどう対応したのか、伝統的な大水とのつきあい方を詳しく解説し、自作の絵にまでしてくれています!見事です。その文章を参考、琵琶湖辺での比較解説をさせていただきます。9月28日。(また長いです)
球磨川周辺では、昔は水害という言葉はなく、大水とか洪水と言った。水害という言葉はダム建設後、害が出るようになったから生まれた言葉という。こうして全国の皆さんがそれぞれ地元で見聞きしたことを共有できる、まさに「参加型・大水経験調査」ですね。利根川の中条堤のこと(土屋信行さんの元資料)、最上川のARAKIさんの経験、そして菊地川の高田祐一さんの投稿。参考になります。つるさんの球磨川版の項目にしたがって琵琶湖編を投稿させていただきます。つるさんが提案するように、全国での系統的調査、できるといいですね。
(1) 天気予報の発達してない時代、人々は雨の降り方、雲の動き、川の水の増減を観て、自分の家から見える岩などを基準にして、どんな対策が必要か判断していた。「あ、今日は床下でおさまるな」とか、「床上までくるな」とか、その判断が外れることはなかった。
→琵琶湖の漁師さんなどは毎朝浜に集まって「ケシキを見る」と言って、「観天望気」(かんてんぼうき)の知識をもち村中で共有していました。今はTVの天気予報です。また野洲川の洲本地区では川の中にあるお地蔵さんの首まで水がきたら「避難」という伝承が守られていました。これらの民間伝承は琵琶湖博物館での出版物にしました。
(2) 浸水は年に一度ぐらいは起こっていたので、どこでも2階建てにして、大事なものは2階に置いていた。1階には必要なものだけを置いた。床板や柱などが腐りにくい松の木が使われているところが多かった。
→琵琶湖集水域で琵琶湖にそそぐ大河川だけでも120本ほどありますが、昭和20年代までの土地利用は、水が出やすい場所には住宅はつくらない、つくるなら嵩上げして、という土地利用と建物工夫がなされていました。ただ最近の都市化でこのような習慣が無視され、危ないところに新住民が住まうようになったので、「地先の安全度マップ」というハザードマップにより伝統的知恵を活かせるよう、2014年の「滋賀県流域治水条例」で明記して義務付けました。
(3) 床上まで来ると思うと、床板を外しテーブルなどの上に置いて、その上に外した畳や戸板など建具を置き、家財道具をおいた。障子はひもで結わえて、柱に結び付けた。建具を外すのは、水の抵抗力をそぎ、水が家の中をスムーズに流れるように。1階部分が浸かると思った時は、どこの家でも天井に2畳分ほどに開けられる部分があったので、2階天井に据え付けられた滑車で、重たいものは2階に移動させた。家族総出でここまで急いで片づけた。
→水の出方によって、それぞれの家毎に、二階にものをはこびあげるという作業は家族総出でやっていました。それ以上の水位が予想されると村の真ん中にあるお寺など高台ににげました。ただ、水が全部ひくまでまっていると、家中に「ニコ」という砂がたまるので、必ずだれかが残り、最後に水が引くときに竹ぼうきで強くはきだす。そうしないとあとで砂出しが大変になる。
→多くの河川では堤防沿いに竹林や樹林帯があって、土砂や流木が流れつくことも少なかった。琵琶湖が近い集落では、屋敷と琵琶湖の間に樹林帯をつくり琵琶湖からの洪水の流れものがぶつかるのを防いだ。愛知川沿いの樹林帯を伐って駐車場にしたところでは、たとえば平成2年の台風時に駐車場で死者がでてしまっています。
(4) 特にお父さんは、洪水時に待ち遠しい楽しみがあったから。それは、どこでも1mを超す大網があって、それで、岸辺に避難してくるアユを大網で救うこと。1年間のたんぱく源としても大事な行事で、流域の人は「濁り掬い」といって、「楽しい大水」と言っていた。
→琵琶湖流入河川でも大水の時こその「楽しみの魚つかみ」がありました。たとえば日野川では「アゼバ」という川沿いの足場をつくり、大きな網で「あんこかき」をし、4-6月頃ならコイやフナ、秋ならばアユやビワマスなど大きな魚がとれて、それはわくわく楽しみだったと。ただ危険が伴うので子どもはいれてもらえなかった。また大雨で堤防がきれた時、アユやビワマスがはいってきてそれをつかんであとから宴会で食べたということも高島市マキノ町知内で聞きました。「大水は悪いことばかりではない、川とのつきあいはええとこどりはでけへんけど、わるいことばかりではない」ということもあちこちで聞きました。
(5)流れてきたきれいな砂は庭に巻いたり、コンクリートの資材にした。泥などまったくなかった。このころは流域に貯木場がいっぱいあったので、流れてくる木材を子供たちは泳いで岸辺まで寄せ、あとで集めに来た人からお小遣いとして駄賃をもらった。したたかな人は、流れてくる流木や材木で、小屋など建てるものもいた。
→琵琶湖流入河川にはほとんど樹林帯がある場所が多かったですが、ナガレモノをあてにして燃料や、時として拾った木材で家までつくったという話は琵琶湖岸で多いです。昭和36年の伊勢湾台風のあとなど、浜辺に流れ着いた木材や木切れを皆で争って拾っていた。証拠写真もあります。大きい材木はつみあげて、そこに石をおいて所有権を主張し、浜辺で乾燥させてから家に持ち帰った、という。
つるさんの結論:
つまり、洪水は恵みをもたらすことはあっても、被害を出すものではなかった。
琵琶湖辺の流入河川沿いや湖辺の村ではそれぞれに地形や農業のあり方も異なっていましたが、秋の米の収穫時期の台風による大水は、「米一粒もとれず」というような悲惨な被害をもたらし、深刻な被害が多かったという記録もあります。渓流沿いで、水田などがほとんとなかった球磨川沿いとは少し異なるかもしれません。
また東京や名古屋、大阪など人口密集の大都市を下流部にかかえる流域での水害リスクと、球磨川のように、近年まで、大水被害が少なったところでは対策は大きく異なるはずです。地形条件や地域社会条件に配慮せずに、確率洪水による「基本高水」の水量だけに目をむける全国で画一的な対策の在り方を見直す時期になっているでしょう。「流域治水」を国政も取り入れた今こそ、流域全体の地形と住民や事業者の意識を反映し、森や生物の価値も踏まえた生物多様性やグリーンインフラに配慮した流域治水に転換する時代となったようです。