Facebook 2021年8月2日 守山市政50周年記念式典に参加をしました。

8月が始まりました。守山市政50周年記念式典に参加をしました。昭和45年に滋賀県で7番目の市として発足して50年。3.5万人の人口は8.3万人へと2.5倍ほどに増えました。私が初めて地域調査で守山市役所を訪問したのは昭和49年の夏。大学院生の時でした。琵琶湖大橋取り付け道路は未完成で一部砂利道。宮本和弘市長の熱い思いでまとめられた『50周年記念誌』は写真資料なども豊富で見事な出来ばえです。市長の挨拶も、「野洲川災害史」「生活インフラ史」「住民組織の展開」という三点から、歴史的事実を丹念にフォローしながら、内実のある心のこもった挨拶でした。ご準備いただいた皆さん、ご苦労さまでした!8月1日。(また長いです、スミマセン)。(式典写真は守山市議の森重重則さんと福井寿美子さんから提供いただきました)。
式典もとても心のこもったものでした。90数名の市制功労者を、7つほどの領域にわけてお一人ずつの業績とお名前を呼んで表彰なさるというのは、公平性を担保しないといけない行政としてはずいぶんご苦労をなさったとおもいます。中学生のエスコートもよかったです。直接知り合いの方がたくさんおられ、私自身の守山市との関わり史とも思いました。『50周年誌』もじっくり読ませていただきました。江戸時代からの行政組織の変化など、地域史としても見事です。個人的に深くかかわってきた領域は主に3点です。
ひとつは、災害史です。滋賀県の水や河川の歴史を考える上で「野洲川」は大変大きな存在です。近江太郎といわれ、3年に一度ほどの水害があった「暴れ川」。大正2年の笠原での堤防切れ、昭和28年の台風13号被害など、地元での被害状況を聞き取りさせていただき、速野小学校で水害ワークショップなどさせていただきました。28年水害をきっかけに南流と北流を合流させて、新しく放水路にするという大工事が昭和54年に完成、日本の河川政策が、国直轄で力をいれてきた政治主導の先駆けでもありました。新庄地区では40世帯の人たちが村ごと移転を迫られました。大変なご苦労がありました。「地球市民の森」「おうみんち」「もりやまフルーツランド」などの施設は河川改修で新たにつくられた施設群です。
二つ目は水環境です。もともと野洲川の周囲は湧き水が多い場所です。守山町の中心部には油池など湧き水池があり、街中を流れる金ケ森川にはゲンジボタルが数多く生息。大正13年に日本で第1号の天然記念物に指定され、京阪神から「ホタル列車」が出るほどで、守山ボタルは満州まで送られたというほど。水源減少などで昭和35年には天然記念物を返上。ただ有難いことに大正時代からホタルの科学的研究を進めていた南喜市郎さんの研究を活かして昭和50年代には守山市政としてホタルの復活に力をいれ市民の保全活動も盛んになってきました。平成元年から「ホタルダス」の住民参加研究をはじめた「水と文化研究会」では守山市のNさんたちが活躍してくれました。「びわこ豊穣の郷」もホタルをきっかけに河川保全運動を展開。そもそも昭和50年代の「石けん運動」も守山市に立地する窒素系社員だったHさんや生協会員のFさんたちが、水俣病からの学びを展開して「石けん条例」までもっていきました。今の「蒼い琵琶湖」につながっています。
三つめは琵琶湖漁業です。守山市の木浜は、「琵琶湖のエリの親郷」として、エリ設置技術者がたくさんおられ、昭和40年代まで琵琶湖中のエリをたてる「エリ師」がおられました。今も守山漁業協同組合は、琵琶湖のエリ漁業の中心です。琵琶湖の北湖がちょうど狭まり南湖にはいる、その地政もかかわり、鮒ずし用の二ゴロブナもかつてはたくさんとれました。今の漁獲高減少は厳しいですが、対岸の堅田と並んで琵琶湖漁業の中心地で、琵琶湖博物館建設時には、資料提供など大変大きな協力をいただきました。漁師のTさんやKさんとは今もおつきあいいただいています。
そういえば、1990年代、守山市と草津市の境目にある琵琶湖博物館の準備の時にはまさに24時間の激務で、比叡平の自宅からの通勤が大変なので、守山市水保町の湖岸沿いの高層住居で数年暮らしていました。比叡山に沈む夕焼けはまさに「西方浄土」の別世界。守山市という名前も、比叡山のお山を守る東の入口、「東門院」から名付けられたということ。阿加井という仏さまにお供えする湧き水が「赤野井」という地名の語源です。守山市内には大きな森も山も全くありません。平地がひろがり、それゆえ「自転車を活用できる町」です。宮本市長のリーダーシップで今はビワイチの「聖地」になろうとしています。滋賀県の中でも今後も活力を増していく、成熟した住みよい街です。そういえば、今人気の「ひょっこりはん」は守山市立吉身小学校、守山中学校の出身です!
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