終戦の日の15日、滋賀県遺族会主催で、彦根市護国神社で開催された「みたままつり」に、国会議員、滋賀県議会議員の皆さん等と参列させていただきました。コロナ渦で絞られた人数でしたが、日中戦争から太平洋戦争にかけて戦死、行方不明となった全国310万人の戦死者の英霊のみたまに、また滋賀県出身の3万人を超える英霊のみたまに玉串を奉納させていただきました。8月15日。(写真提供 中沢けいこ滋賀県議会議員)(また長いです、1700文字)
正午には、東京の日本武道館で開かれている政府主催の全国戦没者追悼式からの放送を聴きながら、時報に合わせて全員で1分間の黙祷。天皇陛下のお言葉、「過去を顧み、深い反省のうえに立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り、戦禍に倒れた人びとに対し、全国民とともに心からの哀悼の意を表し、世界の平和とわが国のいっそうの発展を祈ります」と思いを一つにしました。会場には、地元の皆さんがかざられた生け花コーナーもあり、また戦没者名が記された金色の短冊や提灯がかざられ、会場いっぱいに追悼の思いが満ち溢れていました。ご準備いただいた皆さん、ありがとうございました。
私自身は昭和25年生まれで、戦争中のことは直接知りません。でも戦争中のことを母は時々語ってくれた。「後からみるとおかしな戦争でも、戦争中、私は軍国少女だった」と。母は太平洋戦争中の昭和18年23歳の時、埼玉県本庄市内の北堀の庄田家から諏訪町渡辺家に嫁ぎました。いずれも養蚕や東京出荷の深谷ネギなどをつくる農家で、農業が大好きな母でした。母は平成8年(1996年)に76歳で亡くなりましたが、最近発見された母の日記に新婚の夫が出征した時の鉛筆書きの記録がありました。
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昭和19年3月15日、排水工事の勤労奉仕。そこへ(役場からの連絡)、おもむろに良人(夫)が開いた口『召集がきたらしいんだが』。出征は翌々日の17日。3月16日、朝食過ぎには近所の人が手伝いに来る。涙は見せじと誓いしも時折にじむは如何ともし難い……親類の客も皆就床し我にかえって最後に床に入る。話しは尽きない。明晩からは独り寝のわびしさを味わわねばならぬ。いよいよ出征日の3月17日、駅まで送ろうと心に決める。雑踏する駅頭……見苦しいが涙を出してしまった……いよいよ列車ホームに入る。万歳のこえ。一瞬のうちに通り過ぎる……我知れず不覚の涙 女々しい。帰宅……夜に入り一人床に入る。(腹の子の)胎動しきり。父親の顔も知らぬ子となるやも知れぬと思うと可哀そうになる。涙枕をぬらす。意気地がない」。(この一ケ月後に長男征夫が生まれる)
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近衛兵だった父は外地に出る事なく、昭和20年9月、終戦直後帰省できました。帰らぬ夫や父や、息子を待ち続けた多くの人たち、遺族関係の皆さまに改めて深く哀悼の誠を捧げさせていただきます
またこの機会に是非とも「滋賀県平和祈念館」が発行している『もっと知りたい・滋賀で学ぶ戦争の記録』を読んでいただきたいと思います。平和祈念館のHPにPDF版があり、すぐにアクセス可能です。15年に及んだ戦争下、日本で、滋賀でどのような出来事があったのか、年表などで示してくれています。直接戦地にならなかった滋賀県ですが、軍事施設や軍需工場にはたびたび空襲があり、県内でも50人以上が亡くなり180人以上の人たちがケガをしました。
そして何よりも銃後の暮らしが戦争によってどう影響されたのか、子どもたちも「学徒勤労動員」されて工場で働かされ、「集団学童疎開」で大阪から大勢の都会の子どもが滋賀で過ごしたことなど、戦中の暮らしについても詳しく記しています。「戦地へ送り出す」様子や「女性たちの銃後の守り」や「モノ不足」の中での「配給制度」や「金属回収令」でお寺の鐘や家庭の火鉢や鍋、釜まで供出させられた暮らしぶりも詳しく記させています。母の日記から、「招集令状」の二日後の出征など、本当に身につまされます。
二度と戦争をしない、不戦の誓い、日本人として強く持ち続けたいと思います。
今日のNHKスペシャルは、蒋介石がアメリカやイギリスと交渉しながら、昭和16年の日本の開戦時にすでに日本包囲網をつくっていた外交史が新たに解明されてきたという特集でした。独りよがりの日本政府の突撃姿勢・・・・今の今の日本外交も反省が必要ではないでしょうか。