8月15日、戦後75年という歴史を深く思いおこし、彦根市の滋賀県護國神社での戦没者追悼式(第44回みたままつり)に参加。
惨禍に散った英霊の皆さまのみたまに祈りをささげさせていただきました。
国の方では、日本武道館で、全国戦没者追悼慰霊祭がおこなわれており、滋賀県遺族会の幹部や、県議会議員や国会議員の皆さまといっしょに正午の時報に合わせて黙祷をささげさせていただきました。
それぞれの親や家族が戦争とどうかかわったのか、その記憶をたどり、記録を残すことが何よりもの平和への願いにつながることと思います。
個人史は必ず社会史に影響されており、逆に社会史は個人史の積み重ねの中から語ることができます。
1920年(大正9年)に生まれた我が父と母ですので、ちょうど今年は「父母の生態100年」です。スペイン風邪がはやったことは歴史に残されていますが、両親の口からスペイン風邪のことは聞いたことがありません。戦争の事は断片的に語っていました。
特に母は、自分が軍国少女であり、戦争そのものへの疑いをもたなかった、ということでした
。ただ最近、もう25年も前に亡くなった母の日記が発見され、そこに夫が召集さされた時の記録がでてきました。
戦争中の昭和18年、23歳の時に埼玉県本庄市郊外の農家の渡邊家に嫁ぎ、昭和19年3月15日に夫に召集令状がきます。
そして出発は翌々日の17日。何と緊急の招集だったことか。新婚で働き盛りの夫があっけなく召集される。17日の日記には次のような記述がある。
「出征日の3月17日、駅まで送ろうと心に決める。雑踏する駅頭・・・見苦しいが涙を出してしまった・・・・いよいよ列車がホームに入る。万歳のこえ。一瞬のうちに通り過ぎる・・・・我知れず不覚の涙、女々しい。帰宅・・・夜に入り一人床にはいる。(腹の子の)胎動しきり。父親の顔も知らぬ子となるやも知れぬと思うと可愛そうになる。涙枕をぬらす。意気地がない。」
召集後、通信兵だった父はその後近衛兵となり、幸い戦後は帰宅することができ、兄も父親と合うことができました。
父が帰らねば、私も産まれなかったわけですが、改めて帰らぬ父を待ち続けた多くの戦争犠牲者に、今日も哀悼の祈りをささげさせていただきました。
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