球磨川水害被害地から(その4)。荒瀬ダム撤去地域を7月25日に再訪、2019年8月訪問時と比べ、あまりの変わりように言葉を失う。まさに水害被害が少ないという高台にあった「本家」の和嶋荘経営者の福嶋さん宅さえ、自宅の1階の半分近くまで浸水。お仏壇も浸水!ただ、当主たちは、命からがら高台に逃げる時間があったという。8月2日。(1700文字、長いです、スミマセン)
球磨川下流部の荒瀬地区に昭和30年に完成した荒瀬ダム(写真1)。当時は九州最大の水力発電用ダムで、九州全体の電力需要の半分ほど賄ったという発電所でした。しかし、水力発電の重要性が低くなると同時に、ダムによる球磨川清流の生態系破壊や土砂堆積、また何よりも地元住民にとっての騒音被害や、ダムができてから水害被害も増えたこともあり、永年かけてダム撤去が地元から要望されておりました。
その活動の中心となったのが、八代市のつる詳子さんや荒瀬地区の福島さん、本田進さんたちでした。ダムは6年かけて2017年に撤去され、かなりの清流が戻りました。写真2は、2019年8月19日の荒瀬ダム撤去後のその場での、つるさん、本田さんと嘉田の三人の写真です。後の清流が戻っていることがわかります。
実は荒瀬ダム撤去は日本で最初の大型ダム撤去事業でした。潮谷知事の時代に撤去が決まりながら樺島知事になり、予算不足ということでなかなか進みませんでした。というのもダム建設には「建設国債」といって次世代からの借金(起債)がいれられますが、ダム撤去費用には起債が使えず、一般財源が必要で、樺島知事も財政的に困っていました。
そこに2009年9月、「コンクリートから人へ」という方針をかかげ、各地のダムの見直しをマニフェストにいれた民主党政権が発足しました。前原国土交通大臣の時に、前例のない大型ダム撤去に前例のない国からの補助金がはいり、樺島知事もダム撤去を決意し、それが6年かけて完成したのが2017年だったわけです。
実は荒瀬ダムの10キロほど上流に瀬戸石ダムがあり、今回、あまりに大量の洪水でダムの両側を濁流が流れ、周辺の道路や線路が大変な被害にあった、ということをつるさんたちが確認しています(つる詳子さん7月20日FB)。もし荒瀬ダムがあのまま残っていたら、ダムが邪魔して、荒瀬地区や坂本地区の球磨川の濁流は、今回よりももっとひどく周辺集落を襲っていたのではないか、と地元でも声がでていました。「ダムがなくて良かった!」という声もききました。
今後の検証が必要ですが、球磨川上流の川辺川ダムができていたら水害被害は減ったのでは、という意見がありますが、一方、荒瀬ダムが撤去されていなかったら、という両方を考える必要があります。そのような意味で、「ダムと河川と洪水・水害被害」を真剣に学ばせていただく場として、球磨川は大事なだいじな場所です。洪水で命を落とした流域の65名もの皆さんのためにも、ここは研究として、行政として、また政治として真剣に学び、今後の方向を提案させていただく必要があります。
昨年の8月19日、荒瀬地区を訪問したおり、福島さんが経営なさる和嶋荘(写真3)を撮影しましたが、今回、和嶋荘の半分は完全に流されており、赤い屋根の一部を残すだけとなっていました(写真4、写真5)。また福島さんの家のすぐ横に昭和40年7月3日の「洪水痕跡」が記された電信柱も撮影しました(写真6)。その電信柱も今回は無残に倒され(写真7)、横には大型トラックもたおらされていました(写真8)。
その横にある福島さんの自宅は石垣を2メートルほどつみあげ、「絶対に水につかない」と昨年も言っておられました(写真9)。しかし、自宅の一階真ん中まで水がつかり、仏壇の下部は泥がかかっていました(写真10)。思わず、ご先祖さまに手をあわせました。
江戸時代やその前の記録を調べないといけませんが、令和2年球磨川水害は、歴史的に記録がないほどの甚大な被害だったといえるようです。次回は、坂本村で「九死に一生をえた」本田進さんの紹介をさせていただきます。
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