Facebook 2020年7月28日 球磨川水害被害地から(その1)人吉旅館女将「今回の水害は人の仕業!」と力強く語る言葉に涙

球磨川水害被害地から(その1)人吉旅館女将、堀尾里美さんの「今回の水害は人の仕業!」と力強く語る言葉に涙。7月28日。(また長いです、1900文字)
「球磨川のせせらぎ、アユや焼酎、川下りにおこしくださるお客さん、私たちは川に活かされてきた。球磨川に感謝こそすれ、恨む気は全くない。今回の水害は人の仕業!」ときっぱり言い切る里美さんの迷いない言葉に涙があふれました。二階近くまで泥水につかってしまったその愛する宿の変わり果てた姿に一晩泣きつくした、という失意の中から、立ち上がろうとしている里美さん。
7月4日の早朝、猛烈な雨音で眠れず4時には起きて、二階から「人吉橋」をみて、橋げた近くまで水が迫っていることに驚く。川に降りて樋門のところの消防団に聞くと「今回は危ないかも」という。すぐに当日のお客さん(5人)に電話で荷物をまとめるようお願いをして、自分は化粧をして、身支度をして、朝ご飯を準備。川の水位をみながら、まず6時30分頃、お客さんを高台の高校の避難所に案内する。その時すでに旅館の西側の道路は水がつきはじめていた、という。7時には大将が従業員をつれて高校へ避難。
旅館の一階の天井近くに水がせまってきたのは、入り口のところにあった柱時計が「7時36分」で止まっていたことでわかるという。時計があったところを見せていただき、瀧さんが床からの高さを図り(1.7m)確認。また最高の浸水水位は一階天井(約3.5m)という。天井板も高級素材なので、改めて使えるように設置しなおすという。最高水位がこの場所で何時頃だったのか、避難所にいたので確証はとれないという。
壁土が落ちた、そこには地震に備えるための斜交いの支えを発見!先祖の深い思いに出会い、何としても昭和8年建築のこの建物を再生して、1年後にはお客さんを迎えたいという決意。いっしょに訪問したつる詔子さんや滋賀県立大学の瀧健太郎さんと学生さんなど、一同が一年後には必ず訪問しますと、未来への希望と生きる力をいただきました。
人吉旅館近くのそれぞれの場所で最大浸水深が9時から10時頃のようですがもう少し詳しい情報が必要です。というのは、人吉旅館のすぐ近くの中野さん(緒方紀郎さんの友人)の話では、水は球磨川本流だけではなく、後ろの山田川からもはいってきたのではないか、家の裏に大きな家屋が流れついている、とその場をみせてくれました。中野さんの家の時計は一階で、8時35分で止まっています。
また中野さんは堤防(パラペット護岸)ができる前からこの場所に住んでいて、昔は川をいつも見ていたので、避難時もわかり自分で判断できたという。今は水位の上昇も見えない。また堤防ができたので安心、とも思ってしまうという。また昔は堤防がないので、家の中に浸水してきた泥や水を掻き出して泥が今回のように溜まることはなかったという。堤防が邪魔をして水が流れず、泥水をかき出せないのが問題とも言っていました。
私たちが滋賀県や琵琶湖・淀川地域で水害被害の聴き取りをしていた時も、水が引き始めたらさっさと避難先からかえり、家中みんなで竹ぼうきで掃き出したという。そうしないと、「ニコ」という細かい土の粒子が家中に残ってしまってあとが大変になる、と高齢者から言われ、それを守ってきたという。今も有効な知恵といえそうですが、家財道具も増えて、泥水が深くなり昔よりもずっと後片づけは大変です。
7月22日に「流域治水最前線シンポジウム」を参議院会館で開催し、ようやく7月上旬の豪雨被害をうけた球磨川流訪問が実現できました。25-27の3日間、地元の中島康さん、緒方紀郎さん、つる詳子さんたちにご案内いただき八代の再下流部から旧荒瀬ダムがあった坂本地区、中流部の人吉市と球磨村、川辺川が流れ込む相良村、あさぎり町から多良木町、水上村から市房ダム地域を訪問させていただきました。皆さんお世話になりました。
目的はまさに「河川内の施設や堤防だけに頼らずに、河川の外の流域全体で命を守る流域治水が球磨川流域でいかに可能となるか」というものです。河川周辺の樹林帯や堤防の在り方、土地利用や市街地の発展の歴史など、河川工学や流域管理の専門家が具体的にいろいろ提案くださると思いますが、私は、被害にあった住民、生活者の立場から聞き取りをさせていただき、今後同じような被害をださないような政策上の方向をまとめたいと思います。短時間でできることは限られていますが書かせていただきます。
いっしょに行った「つる詳子さん」からのレポートも昨日のFBでアップされています。ご覧ください。
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