「倉敷市真備水害被害調査(その3)」。8月7日岡山県倉敷市の真備地区の水害被害調査の第3報です。洪水は自然現象、水害は社会現象。倉敷市真備地区の水害と水防の歴史、そして1970年代以降の都市化の進行と水防体制の弱体化についてまとめ、「想定外」をつくらない「流域治水政策」こそ今求められていることを提案します。8月15日。また長いです(微笑)。
昭和54年に発行された『真備町史』によると、この地域は古来より水害常襲地であったようです。岡山県で最大の流域面積をもつ高梁川とそこに真横から流れ込む小田川が交差する、そのすぐ下流に山がふさがるいわば地形的にも洪水が起こりやすい狭窄部であり、洪水常襲地であったことがわかります。地名からしても「小田」というのは広い田んぼがつくれず、水害が多い場所の地名とも言われています。
明治時代以降、平成までの地図をみると(写真添付、明治30年、昭和42年、平成20年の3枚です)、明治時代、高梁川沿いの「川辺」村の周囲はいわゆる「輪中堤防」で囲われており、それ以外の岡田村、箭田(やた)村等は基本的に山裾にあり、洪水地域には水田があるだけです。それもいわゆる湿地にある「掘り上げ田」であり、田んぼづくりでも洪水に苦労をした模様がみえます。
明治以降最悪の水害は明治26年9月4日、高梁川本川が決壊して小田川も何ケ所かで決壊をして内水氾濫もあり、溺死者は川辺村の住民を中心に180名といい、住宅被害も甚大で、川辺村では384戸のうち19棟を残して流出したという。『真備町史』には、自宅の屋根棟の棟竹を握りしめながら、家ごと瀬戸内海の塩飽島まで流され九死に一生を得た神埼友三郎さん(昭和45年に96歳で逝去、明治7年生まれ)の壮絶な体験談が紹介されています。
その後、明治29年に国も「河川法」を制定して、直轄河川の治水工事に力をいれ、高梁川も明治44年から大正年代にかけて、河川のつけかえや堤防強化で水害対策をすすめてきました。しかし、昭和9年、昭和20年、昭和26年、昭和35年、昭和44年、昭和47年、昭和51年と小田川周辺では川の増水と橋の流出、家いえと田畑の浸水被害が相次いでいます。昭和51年9月の水害では、床上浸水79戸、床下浸水375戸となっています。しかし、浸水は多いが、昭和にはいっての水害では死者の数は記されていません。
また社会的対応として重要なのは、明治26年の大洪水後に土地所有者や耕作者が「水害予防組合」を各村落毎につくり(岡山大学内田和子教授の研究による)、①河川改修の費用負担、②水利の費用負担、③日常的な水位観測や水路補修・井堰操作、④洪水時の堤防防護、⑤住民の避難計画・実践などきわめて具体的でち密な水防計画をつくり実践していたようです。このような水防予防組合の社会的対応もあり、水害による死者を出さなかったとも推測されます。
しかし、昭和の高度経済成長期にはいり高梁川最下流部に水島工業地帯などがひろがり、そこで働く人たちの住宅地域として真備地域は注目され、昭和46年から51年までの6年間で3290区画の宅地開発がなされています。92%が持ち家ということで、世帯あたり4人としても1万人を超える人口増加がありました。今回ご自宅で溺死した高齢者の多くはこの時期に家を求めた人たちと思われます。ローンを組んで住宅をつくり、退職後の老後の自宅が水没した方も多いようで心が痛みます。
問題はこの住宅開発をした時に水害への備えがどうなされていたか、ということです。現地をみて驚いたのは、湿田地域に住宅をつくるに時は土地を「かさ上げ」している場合が多いのですが、それがほとんどみえず水田とほぼ同じ高さに住宅や店舗や病院、あるいは公共施設をつくっていることです。浸水被害の情報を土地取引の時に知らせていない、あるいは知らせていても、関心をもたれなかったのか、今後の調査が必要です。
また堤防保護や水防活動で重要な役割をしていた「水害予防組合」が昭和49年に解散されています。理由は三点あると内田和子さんは解説しています。①昭和39年に河川法が改定され、小田川が一級河川に指定され堤防や水門管理者が県と国に移ったこと、②町村合併で、川辺村や岡田村が真備町になり水害予防組合はふたつ以上の町村にまたがること、という条件を満たさなくなったこと、③水路の維持管理等を水田所有者だけで行うのは不公平であるということになり、真備町全体で管理の役割を果たすことになった、ということです。
多くの地域で水防役割は地域の消防団が担うことになるのですが、真備町では当事者団体である水害予防組合が解散された後、水防役割は消防団が担ってきたのか、今回は十分時間がとれずに調査ができておりません。しかし、新住民が急速に増えた昭和46年頃から昭和50年代中頃の10年間に、それまでの水防組織である「水害予防組合」が解散してしまい、地域社会での水防活動が手薄になってしまった、ということが推測されます。
私自身、川と人のかかわり、特に水の恵みと災いの記録と経験を滋賀県内だけでなく、近畿圏でひろく調査をし、都市化の拡大とともに、河川管理者が上位の行政機関にうつり、それまでの地域共同体が担っていた水防組織が弱体化していくプロセスを、「近い水」から「遠い水」へ、と分析してきました。その間に潜在的なリスクは高まっていることになります。
それも新住民の方は、昔の水害を知らずに土地を購入している場合が多い。水害リスクに備えるには住民とともに行政の役割も重要です。それゆえ、再び「近い水」を取り戻し、「公助」に加えて「自助」「共助」の水害対策を埋め込んだ流域治水条例の必要性を感じて政策化してきたのです。
真備町でも昨年の平成29年2月にハザードマップが示され、今回の浸水区域がほとんどそのマップと重なっていました。しかし、現地で伺うとハザードマップを意識してそれで避難訓練をした、という事例は聞きませんでした。自分がすでに住んでいるところが危ないと言われるのを多くの人はいやがります。知りたくないと思う。特に3メートル以上もの浸水のリスクは知りたくない、行政も知らせたくない。過去の許認可の責任をとらされるかもしれませんので・・・。
滋賀県でもリスクマップを公表しようとした時に、「河川の中に水を閉じ込めるのが知事の仕事だ、堤防から溢れることを認めるな」「地価が下がる!」「地価が下がったら誰が責任をとるのか!」と県議会や市長会でも厳しく批判されました。その上で、水害被害を受けるかもしれない場所には住宅や福祉施設をつくることを制限する土地利用制限や、避難体制がとれない住宅の建築制限もいれました。しかし、条例の実施にはまだまだ時間がかかりそうです。でも命を失ってはもともこもない。
これまで、各自治体や国土交通省等の水害対策の努力がかなり被害を減少させる効果を出しているとは思いますが、ダムや河川施設で守れるのは「計画規模」以内の想定内の水害だけです。今、洪水多発時代にはいり、「計画規模」をこえる洪水=超過洪水も「想定内」にし、「あらゆる水害から命を守る」という目的を実現していく必要があります。
真備の例は、残念ながら水害リスクに備えきれず、51名もの方が自宅で命を失ってしまいました。水害被害の最小化をめざして研究をし政策実践もしてきた立場からは心から悔やまれます。残念です。でも、国土の7割が氾濫原である日本では、真備のような場所がたくさんあるはずです。皆さんのお近くのところもどうなっているでしょうか。今こそ、「想定内」しか守ろうとしなかった、明治以降150年来の河川政策を大きく転換していく時期とおもいます。そうしなければ、今回、自宅で居ながらにして命を落としてしまった真備の皆さまの犠牲が無になってしまいます。
今、国でも「国土強靭化」という政策をとろうとしています。国民の生命と財産を守り抜くため、事前防災・減災の考え方に基づき「強くてしなやかな」国をつくるための「レジリエンス(強靱化)」に関する総合的な施策推進をすすめようとしています。水害対策でも「水防災意識社会」の再構築に向けて、流域治水と考え方が共通するハード・ソフト対策を一体的・計画的に推進しようとしています。
レジリエンスとは「強くてしなやかな」国をつくるための国土政策といわれますが、もともと「レジリエンス」は人間の心理学などで「逆境に強い」「折れない心」なども意味しています。またライフスタイルとしても、多様な生活文化をもち復元力がある、という意味にもつかわれます。たとえば地震で水道システムが壊れても、井戸や湧水があることで暮らしをつなぐことができることは「レジリエンス」が高い状態といえます。
真備町の報告は一旦これでおわりますが、次回、レジリエントな社会づくりの研究として、放送大学等の皆さんの仲間入りをして訪問したモンゴルの話を紹介させていただきます。
長文におつきあいいただき恐縮です!多謝!