まさか自分が「古稀」とは!皆さまからのたくさんのお祝いメッセージに恐縮しております。感動です。ありがとうございます!
滋賀県女性の平均寿命は87.57歳。まだまだ元気で、皆さんのために働かせてもらえそうです(微笑)。今日はわが誕生日にちなんで、いささか個人的すぎますが、産み育ててくれた母への感謝も込めて「戦争と感染症の自分史100年」を語らせてください。私の大好きな母、生きる元気と魂を植えつけてくれた母が生まれたのはちょうど100年前の1920年(大正9年)。1996年に76歳で亡くなりました。今新型コロナウイルスに苦しむ世界ですが、当時スペイン風邪が世界を襲い、世界総人口の3割にあたる5億人が罹患し、2000万人から4500万人が死亡したという。スペイン風邪がようやく終息した年に生まれた母。母とつなぐと100年の歴史が「自分化」できます。(また特に長いです。スミマセン、4900文字)
私が埼玉県本庄市で生まれたのは1950年(昭和25年)5月18日、朝鮮戦争勃発直前。ちょうどその頃の写真が最近発見されました。母の実家で出産した直後です(写真1)。昭和27年秋、戦後の食糧難と没落地主の13人大家族の家事・育児・農業の過重労働で母は結核に倒れた。戦争中のことを母は時々語ってくれた。「後からみるとおかしな戦争でも戦争中、私は軍国少女だった」と。
母は太平洋戦争中の1943年(昭和18年)23歳の時、本庄市内の北堀の庄田家から諏訪町渡辺家に嫁ぐ。渡辺家は10町歩ほどの土地をもつ中小地主で、畑作や養蚕もしていた。母は1996年に亡くなったが、最近発見された日記に新婚の夫が出征する記録がある。「昭和19年3月15日、推進隊の行事として東五十子の排水工事の勤労奉仕。そこへ(役場からの連絡)、おもむろに良人(夫)が開いた口「召集がきたらしいんだが」。出征は翌々日の17日という。
3月16日、「朝食過ぎには近所の人が手伝いに来る。涙は見せじと誓いしも時折にじむは如何ともし難い・・・親類の客も皆 就床し我にかえって最後に床に入る。話しは尽きない。明晩からは独り寝のわびしさを味はわねばならぬ」。いよいよ出征日の3月17日、「駅まで送ろうと心に決める。雑踏する駅頭・・・見苦しいが涙を出してしまった・・・いよいよ列車ホームに入る。万歳のこえ。一瞬のうちに通り過ぎる。気が抜けた感じ・・・我知れず不覚の涙 女々しい。帰宅・・・夜に入り一人床に入る。(腹の子の)胎動しきり。父親の顔も知らぬ子となるやも知れぬと思うと可哀そうになる。涙枕をぬらす。意気地がない(この一ケ月後に長男征夫が生まれる)。
近衛兵だった父は外地に出る事なく、昭和20年9月、終戦直後帰省できた。帰らぬ父を待ち続けた多くの戦争犠牲者に改めて深く哀悼の誠を捧げさせていただきます。
その後、母の闘病日記『日々のなぐさみ S.W』と記した日記が2014年春に母の古い箪笥の底に敷かれた新聞紙の下から実家の兄嫁により発見された。母の衣類などを整理していた兄嫁は見落とす所だったという。この日記はよほど他人の目には触れてほしくなかったのだと思います・・・。中をみると赤裸々な苦しみの日々。舅との確執や夫の浮気・・それにまさる子どもたちへの愛。私はライフヒストリーを聴かせていただき社会史を学ばせていただくことを半ば仕事にしていたのに、生前、何度聴いても口を開かなかった母・・・こんな苦しみの日々があったのだ。それも明治民法の家制度の元で、苦しみぬいた嫁として。そこに襲った結核です。
日記は、「昭和28年1月26日」から始まります。私はまだ2歳です(写真2)。直前に「肺病病みは家をつぶす厄病、実家へ帰って直してこい。治療費は実家でもつべき!」と夫の父(舅)に言われ、婚家から追い出され、実家に帰された直後から始まります。8歳の兄と6歳の姉は婚家において、末っ子の2歳の私だけつれて実家に帰されたのです。その実家も11人兄弟の長女である母の下に10人の弟・妹がいたのです(写真3)。決して安住の地であるはずがありません。
日記の最初の日。「由紀子 風邪を引き発熱38.3度。・・・自分に何のやましい点があろう。只々働いてきた今迄、何としても口惜しい。他人故に、何も親身になって世話をしてやることはないのだ。(父の弟・妹の洗濯・食事などの家事も母がしていたようだ)・・・過去十年間のこと走馬燈の如く思い起こされる」(昭和28年1月26日)。
「感冒気味の為か頭が痛い。人間なんて弱い動物だ。頭が痛い、気分が悪いと思うと先から先へと想像をたくましくして最悪のことまで考える。それならばそれで良い様なものの生への執着からか、死をおそれる。この天地悠久の流れの中に生を受けて二十年、三十年、長らえても大したことはないものを悟れぬ者のかなしさよ。由紀子は相変わらずよくならず。
父親がいたなら医者へも連れていってやれるものを、家があるようで実際はないのと同じ不安な気持ち。哀れな親子、神様加護を授けて下さい。夕方になるも風止まず、由紀子と二人で(実家の)離れに寝るのも心細いようだ。征夫(兄)の感冒はどうしたやら、想い巡らせば果てしない。三人の子供の生長、これのみが前途のひかりである」(昭和28年1月29日)
母の日記には、庭の樹木や花など、自然の記述が多い。身の周りの自然の移ろいを心深く味わっていたようだ。母といっしょに草取りをしていると母がいつも言っていた。「名前のない草はないよ、由紀ちゃん。これはホトケノザと言って、ちょうど仏さんが葉の上に座っているようにみえるだろう。これはヤエムグラと言ってね」と語ってくれた。草花の名前もよく知っていて、新聞紙の間にはさんで押し花などもたくさんつくっていた。
さて、1953年(昭和28年)の5月18日、67年前の私の誕生日の記述。その数日前から私はハシカをわずらっていたらしくて、高熱がでていたようだ。その由紀子を実家において、長女の純子と長男の征夫が気になって町の本庄小学校まで出かけたようだ。「由紀子誕生日」の記述はひとつもない。実は母の日記の中に、誰の誕生日の記述はない。そういえば、私自身の母との暮らしの中で誕生日を祝ったことも言及したことも記憶にない。誕生日を祝う習慣はやはり近代化以降の西欧文化の影響なのだろうか?
このあと昭和28年の10月13日で母の闘病日記はおわり、10月17日には、深谷の日赤病院に入院が可能となった。深谷日赤時代、私が父といっしょに母を訪問した写真がある(写真4)。
若かりし時の母の貴重な写真だ。この後、数年間の闘病を経て、特にストレプトマイシンの効果により、昭和32年頃には結核も治り、渡邊の実家に帰る。ただし、舅からのいじめは彼が昭和42年に亡くなるまで続く。母との写真はこのあと、中学校1年生の時、渡邊の家の鶏小屋の前のものがなつかしい(写真5)。
結核といえば、実は、私も1999年滋賀県職員時代に3ケ月入院した。喘息で大津日赤に入院中結核陽性がでて、突然隔離され、近江八幡のヴォ―リス記念病院でお世話になった。初期でありすぐに職場復帰できたが「感染症ゆえ突然隔離される辛さ」を味わった。最初の孫が生まれる、その時だった。生まれた初孫を抱くのにマスクをしなければならず、せつない思いが記憶に残る。その孫娘も、今年は大学4年生、就活中。コロナ対策でどうなることやら?
石弘之氏によれば(『感染症の世界史』2014年)、ヒト型コロナウイルスが初めて出現したのは紀元前8000年頃。「牧畜」と「農耕」「定住化」が開始され「ヒトと動物の濃密な接触」から始まったのが感染症だ。ペストの大流行は、中世ヨーロッパの「中世農業革命」があり、食糧生産の増大・人口増大・都市の発達に伴って、ネズミが大発生しペストを媒介した。今、21世紀に苦しんでいるコロナウイルスの起源は今から1万年前。
同じく石氏によると、我が母が苦しまされた、また私も罹患した結核が人類に広まったのは7-6万年前。アフリカに出現した結核菌が人類の移動に伴って世界各地に広まったという。日本にはいってきたのは弥生時代らしく、弥生時代初期の遺跡から発掘された人骨には結核菌による脊椎カリエス人骨の曲がりがあるという。平安時代には「胸の病」と呼ばれ、『源氏物語』では紫の上が胸の病に苦しむさまが記され、また感染症であるマラリアも当時の京都にはあったようです。
江戸時代には結核は労咳(ろうがい)と呼ばれ、18-19世紀の近代工業が発展する中で都市に集められた労働者層が、過酷な労働と貧弱な栄養の中で結核にり患していきます。マルクスの『資本論』(1867年―1894年)や細井和喜蔵の『女工哀史』(1925年)には、重労働、低栄養で劣悪な生活環境の中で多くの若者労働者が倒れていった様が描かれています。「不治の病」であり、結核患者が出ると「肺病病みの家」と言われ、差別の対象でもあった。
実は今もまだ結核に苦しむ人は多く、日本でも年間17000名ほどが罹患し2300名ほどの死者があります(今、5月18日時点の新型コロナの死者749名よりも多い!)。またアフリカなど途上国では、結核、マラリア、エイズという感染症に苦しまされており、そこに新型コロナウイルス。同じ地球に暮らす仲間として途上国の苦しみは他人事ではありません。
100年前のスペイン風邪で亡くなった人口は世界では約5000万人といわれています。直前の第一次世界大戦での死者1000万人の5倍です。ペストや結核、天然痘など古来から人類を苦しめてきた感染症の中で撲滅できたのは天然痘だけです。そして今、次なる感染症は、ますます増えてくるでしょう。地球規模での森林破壊、開発で、野生起源のウイルスはますます増えてくる。また温暖化の影響で生き物の生態系が大きく破壊されています。
今世紀の人類の最大の脅威は地球温暖化や森林破壊など、過剰開発による「ウイルス感染症」ではないか。人と人が争っている戦争にかまけている時代ではないでしょう。人が人類として、共同して立ち向かうべき相手は、ウイルスなどの自然そのものでしょう。それもまだまだ見えていない生態系の仕組み、ウイルス学、疫学までふくめ、人間側では公衆衛生学やリスク管理学、ワクチンや治療薬開発などの医療研究と実践も必要です。
歴史家の磯田道史さんは、「“仮想敵”が日本に軍事的に攻撃してくる確率よりも、パンデミックで国民の命が失われる確率の方がはるかに高い現実がある」(『文藝春秋』2020年5月号、107頁)という。新しい「国防」とは何千億円もの戦闘機に投資するよりも、21世紀型の新しい「国防」、感染症から命と暮らしを守る医療投資を、と呼び掛けています。
京大の山極寿一総長も言います。もともと類人猿のゴリラ研究者の山極さんは、今後の人類の共通の課題は感染症対策だという。自然の過剰開発で、ウイルスはますます人類に牙をむいてくる。その時に教育や芸術など、人びとの社会的絆を薄れさせ、感動が共有出来ず、心身が冷え切った社会にしてしまっていいのか。パンデミックの時代にあっても、人と人の絆を断ち切らないためにも、衣食住のライフラインを失わず、ベーシックインカムを国家として維持して「共感や感動を分かち合える環境」を整えることの必要性を強調しています(朝日新聞、2020年5月14日)。
ちょうど100年前に生まれた母や、そして母の世代が苦しめられてきた戦争と感染症のリスクを考えた時、ここは冷静に、人類同士が戦争をしている時代ではない、感染症といかにつきあっていくのか、人類にとっての最大課題と思います。私自身環境と人間のかかわりを研究してきた立場も踏まえて個人的な「戦争と感染症の自分史」を語らせていただきました。ここからいかに社会化していくか、公人としての仕事構想を煮詰めていきます。
最後の写真は本日の国会議事堂前です。39県の緊急事態宣言が解除され、ようやく動き出した日本です。コロナ感染の拡大を防ぎながら、経済や社会の破壊をふせぎ、「コロナと共に」生きていく社会づくりにむけて、まずは二次補正にむけての予算審議。あわせて夏にむかって小康状態になっても秋以降の第二波、第三波にむけて、集団免疫獲得、抗体検査、ワクチン開発など、中長期的な出口戦略を提案していきます。長い文章におつきあいいただきありがとうございました。
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