最初の写真はどこかわかりますか?宇治川の上流から下流の巨椋池方面を見た写真。今から65年前の昭和28年(1953年)のちょうど今日、9月25日。手前に見える鉄橋は近鉄が宇治川を渡る橋です。昭和16年に干拓された巨椋池がそのまま出現。一般に「28水」と呼ばれる台風13号で淀川水系は戦後最悪の洪水被害をうけ、このあと天ケ瀬ダム建設の準備が始まりました。今日はその時の滋賀県内、安曇川町での被害を辿ってみます。9月25日。また長いです(スミマセン)。
台風13号は勢力が強いまま志摩半島に上陸。三重県、愛知県、和歌山県、滋賀県、京都府などで大きな被害がでて、死者・行方不明は478名、全壊家屋8604棟、流出家屋2615戸、床上浸水144,300棟と大変な被害となりました。被害原因は大雨洪水による堤防決壊などでした。
滋賀県内では死者・行方不明者47名となり、特に被害がひどかったのは安曇川から朽木村など高島郡内でした。日降水量198ミリメートルという豪雨で、現在の高島市安曇川町の青柳地区と川島地区の二か所で安曇川右岸が400メートルにわたり決壊をし、青柳村二ツ矢では10戸が流出し死者・行方不明者14名の被害となってしまいました。
被災者のお一人、Sさんに平成16年に伺った話を紹介します。9月23日、24日、25日とヒモのようなどしゃぶり雨が降り続き、25日の午後には消防団員といっしょに自分も安曇川堤防で土嚢積みをしていたという。しかし、堤防の一部に低いところがあり、そこから水が溢れてきたという。この堤防の低いところは昭和8年に安曇川橋が新しくなった時の古い橋のところで、低いまま放置されていた。Sさんは「堤防の低いところをそのまま放置したのは行政の責任、人災だ」という。
その上、堤防があふれだした時、堤防沿いにあった半鐘を鳴らして集落に決壊を知らせるための、その半鐘も戦争中の金属供出で出してしまって半鐘も鳴らせなかったと。さらに戦争中に男手がなくて、川底から砂や石を建築用などに運びだす作業もできず、川底も高かったという。
土嚢積みをあきらめて、Sさんたちは急ぎ、自宅の方向にはしった。午後6時前、うす暗くなっていた。自宅には自分たち夫婦、親夫婦など7人が暮らしていたが、自宅に逃げ帰った直後に洪水が家にはいってきて、家族みな二階に逃げ上がったが、家毎流されてしまった。その時3歳と1歳半の娘さん二人いたが、下の子が流されてしまい、あたりは夕方で薄暗くて、奥さんと3歳の娘さんと三人で近くの栗の木につかまり一夜を明かして翌朝助けてもらったという。ご両親も近くで助けてもらったという。ただ、1歳半のお子さんは何日も見つからなかった・・・。
半月ほどして、下流の金丸橋の近くの桑畑で「子どもが死んでいる」という知らせがあり、飛んでいった。そこには、カラスにつつかれた、変わりはてたお譲さんの姿があった・・・。家も家財も流されてしまったのに水害後1ケ月ほどして、琵琶湖の対岸の八幡の役場から、「二ツ矢の名の書いたタンスやらがあるから取りにこい」と連絡があったという。
船木の漁師さんに舟を出してもらって八幡までタンスをもらいにいったら、そこに自分の家のタンスが流れ着いていて、そのなかに亡くなった1歳半の娘さんの写真がはいっていた!「琵琶湖を渡って八幡まで、この子の1歳の時の写真が流れとったんです・・・・」。Sさんは大事に仏壇に飾ってあったお譲さんの写真を見せて下さいました。
28水で壊れた金丸橋の修復された写真もありました。また少し下流の堀川橋も流されてしまった、その写真と、平成16年当時の堀川橋の今の写真もあります。実は堀川橋の写真を写されたのは斎藤源一さんという大正初期生まれの方です。
今は故人となっておられますが、斎藤さんは28水当時、地元の本庄小学校の先生で、カメラが好きで水害の記録を残そうと多くの写真を写されました。ところが地元の方から「こんな水害時に写真をとるのはけしからん」と批判をされ、長い間「封印」しておられました。
私自身、昭和56年に琵琶湖研究所に就職し、水と人のかかわり研究を進めていた時、28水の水害写真を映した人がいる、と聞き、昭和58年頃斎藤源一さんを訪問しました。そこで、大変貴重な写真類をみせていただき、斎藤さんご自身も「地元で批判されたけれど、今となっては研究所の役にたてた。映しておいてよかった」と言って下さり、その後、斎藤源一さんは、ホタルや雪など、私たちの地元調査に積極的に参加下さいました。
話がそれてしまいましたが、水害史を、被害を受けた当事者目線で再現しようと目的を定め、各地をまわり被害写真を集め、聞き取り調査をしてきました。40年間、ほとんど公表せず、今にいたっていますので、ぼちぼちと公表させていただこうと思います。長い話におつきあいいただきありがとうございます。