「伊勢湾台風と新幹線建設」というテーマで解説させていただきます。

昭和34年9月26日の伊勢湾台風の大変な被害を受けて、地元住民が新幹線を「盛土ではなく、高架式にするように」と強く要望し、当時の国鉄も住民意見を受け入れて「避溢橋(ひいつばし)」(溢水を避ける橋)にしました。先人から学ぶ流域治水のひとつの考え方です。歴史的記録として紹介させていただきます。9月27日。また長い(スミマセン)。

写真1をご覧ください。何の変哲もない写真ですが、これが「避溢橋(ひいつばし)」です。ここには水害回避について大きな意味が隠されています。新幹線が名古屋方面から滋賀県内にはいり、米原駅直前で大きな川を渡ります。「天野川」です。乗客からは見えないのですが、川の堤防側から見ると、新幹線が高架となっていることがわかります。この理由を、地元箕浦地区のAさんが下のような証言をしています(滋賀県HP「水害の記録と記憶」より)。

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伊勢湾台風当時、私は22歳、青年団で堤防の土嚢積みなどをしました。・・・実は、昭和31年11月、東京・大阪間に広軌新幹線を作る計画がなされ、昭和35年3月に、新幹線の高架は盛土式にしたいと国鉄側が地元に提示してきました。それを受けた地元住民は箕浦対策委員会を結成しました。元国鉄の建設関係の技師が中心となり「新幹線のところは、絶対に高架にせなあかん」と盛土式に反対。というのも前の年、昭和34年8月の7号台風や9月の伊勢湾台風によって、天野川の多くの堤防が決壊して水害が起き、危ない目にあったことから、「このような場所に盛土式の軌道を建設してしまえば、大水の時に盛土が堤防になり水が溜まる」という要望書をJR側に提出しました。
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箕浦集落の人たちは、集落を守るために粘り強く反対運動を行い、その努力の結果全面スラブ式高架となりました。また新幹線の上流に国道8号線のバイパスが通過する時も箕浦にとって重大関心事でした。天野川の右岸取り付け部分を盛土にするという国の計画に、箕浦は橋梁に改めてほしいと陳情する。交渉は難航したが、結果としては地元の要望に応えて橋梁になった。国道8号線バイパスは昭和45年2月に開通。地元の方は、「抜いてあるところもあるけど、盛土のところもあるし、だいぶ狭めてある」と今も不安をこぼしています。

写真2は滋賀県が広報用につくった「避溢橋」を説明するもので、右下に「盛土式新幹線絶対反対;スラブ式全高架橋要求」という看板写真がみえる。写真3には同じく県が作成した水理モデルを活用した天野川と新幹線が交差するあたりの浸水シミュレーション図が示されている。地元住民の方たちが主張するように、新幹線が盛土になっていたら、天野川から溢れて洪水が下流に流れずに、浸水深が深くなることがわかる。

写真4は、天野川沿いの濁流に流された水田です。女性と男性でしょうか。妻と夫かもしれません。なぎ倒された稲穂を鎌で1本1本刈り取っているようです。遠方には子どもの姿も見えます。9月末の米の収穫直前の田んぼが水につくことがどれほど、農家にとってつらいことだったかを示すものです。写真5も洪水で倒された稲株を手刈りしている場面です。いったん水についた稲は笹で洗って乾かしてから脱穀などをしたが、等級も落ちてしまってやすく買いたたかれてしまった、ということをよくききます。

また写真6の地図は伊勢湾台風での降水量ですが、天野川は河川がが短く急流で、そこに400-500ミリの豪雨が降ったことがわかります。残された記録をみても天野川周辺の破壊力は大変大きかったようです。それだけに、先ほどの箕浦地区の新幹線の高架化運動のように、いわば町づくりの中で住民の経験知を活かして水害回避の仕組みが貫徹されていることが分かると思います。

そしてもう少し振り返ると、この天野川には集落がないところは「霞堤」などで、あえて堤防を不連続にして居住地を守るための仕組みが江戸時代、彦根藩の政策によってなされていたようです。地元でも、「家のないところは堤防を弱くしてある」と今も言われています。

写真7では手前の水田側の堤防は対岸の集落側の堤防よりも低いことがわかります。そしてその低い堤防のところに「米原市水防倉庫」があり、豪雨の時の水防活動が地元でなされていることがわかります。施設だけで守りきれない洪水は、水防活動などのソフト対策で被害を少しでも減らそうという先人からの思いと願いが滋賀県各地で生きています。多分、丁寧に調べると日本各地に残っているはずです。洪水多発日本では水害は宿命でもありますので・・・・・・・・。

「流域治水」はそのような先人の経験を、条例という形で制度化したものでもあります。(資料協力:滋賀県、瀧健太郎さん、子供流域文化研究所)

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