「土倉鉱山遺構と巨木が眠る金居原の森散策ツアー」

奥琵琶湖、「土倉鉱山遺構と巨木が眠る金居原の森散策ツアー」に小松明美さんといっしょに参加。かつての鉱山は「採鉱開始から108年、鉱山閉山から53年、いまここは森に帰ろうとしている」。11月11日のツアーを13日にアップです。(また長い、1800文字です)。

主催者の言葉どおり、コンクリートを突き抜けて天空に伸びる木々。いつの日か巨木に育つ、そんな過去から未来を包み込む、紅葉真っ盛りの琵琶湖源流部の谷筋と森の散策を楽しみました。ツアーを主催いただいた「ながはま森林マッチングセンター」の皆さん、ご案内いただいた金居原の地元の皆さん、ありがとうございました。

今から4年半前の2014年5月24日。琵琶湖源流部の長浜市旧木之本町金居原地区にあるトチノキの巨木25本が業者の手にわたり伐採の危機にあり、当時の現職知事として視察に出かけました。今回のツアーの土倉谷から奥深く尾根筋にあがり、新緑の巨木群に感動。根元から流れだす源流の水を一滴口に含み、保全への決意をかためました。

トチノキ巨木伐採の目的は海外でのマンション内装材の需要が出てきたからです。2011年に滋賀県は「水源の巨木保全制度」をつくり、高島市での保全活動を後押ししてきました。金居原の巨木については、元もとの所有者が買い戻しを主張し、また研究者や住民有志が「びわ湖源流の森林文化を守る会」をつくり、伐採阻止活動を進めてきました。最終的には裁判となりその解決を受けて保全基金を今年7月から募りました。皆さまからのご協力をいただき、10月末で巨木トラストの目的額(1400万円)が集まりました。ご協力いただきました皆さまに深く感謝いたします。

そのトチノキ巨木群が眠る源流部には明治43年(1910年)から昭和40年(1965年)まで、銅等を掘り出した「土倉鉱山」がありました。今回主催者が準備下さった資料には、鉱山で働く人たちが坑道にはいる場面や坑道内で選別する女性たちの姿など、リアルな仕事場面が掲載されています。選鉱場で選別された鉱石は土倉鉱山から13.2キロの空中索道がかけられていた、ということ。また杉野川沿いには1500人ほどの社員家族が住む住宅地もあり、学校や配給所や映画館などの娯楽施設もあったという。

土倉谷を歩きながら、小原かごをつくるイタヤカエデや、今にも食べられそうなノブドウ、巨木のケヤキ、オオモミジ、ミズメ、谷筋のイワタバコ、ノコンギクなどの植物の名前や利用用途など、マッチングセンターの橋本勘さんが詳しく紹介下さいました。赤い鉱石など、みがけばパワーがでる石も教えていただき楽しかったです。ありがとうございました。

今回のツアーの圧巻は、地元の方たちのリアルな経験に根差した「語り」です。金居原自治会長の山﨑清志さん(昭和10年生まれ)は、鉱山にそった土倉谷沿いに田んぼや畑があり、5歳頃からお母さんと畑仕事に来たという。また鉱山の空中索道のバケットに飛び乗って怖いこわいいたずらもしたという。奥土倉には天和2年(1682年)に彦根藩に炭を納めるために6戸の家族が住みつき今も古墓が残され、鉱山当時も雪崩がおおく、命を落とした人たちの魂をなぐさめるお地蔵さんも残されています。人の暮らしの気配が眠る森です。

また金居原生産森林組合の山田洋さんは、トチノキの巨木が眠る山並の前で、かつて炭焼きが盛んだった時代、トチノキは柔らかすぎて炭には不向きだったので地元としてあまりふりむかなかったという(ここではトチ餅づくりはあまりしていなかったようです)。しかし、今こうして多くの人が関心をもってくれているので、奥山のトチノキ巨木を見てもらえるように道の整備もしたい、と言って下さいました。

実は今日歩いた道も、7月の大雨や9月の台風で倒木が道をふさぎ、また谷筋の道は崩れてしまい大変だったそうです。その痕跡はここかしこに残されていました。そこを、山田さんたちが、倒木を切り谷筋の歩道を直し、渡しの橋をつけて、整備をしてくださいました。杉野川に土倉谷が合流する入口付近はマッチングセンターと長浜市が協力をして道を整備してくださいました。大変歩きやすくなり、感謝です。

今日のツアーでは、写真冊子にプラスして、バスの中で事前に鉱山の歴史や森林の風景を見せて下さるドローン映像入りのDVDも準備下さいました。この日のために大変な準備をして下さったマッチングセンターの押谷正センター長、橋本さんはじめ皆様、金居原の地元の皆さまありがとうございます。お昼の弁当は「合歓の里」の女性たちの手づくり弁当でした。山菜がおいしかったです。

この後、雪深い冬の眠りからさめ、来春の新緑が萌え出る頃、再訪できたら、と願います。

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