高まるブーム、安土城も再建?復元向け滋賀県が調査」

安土城・信長ファンとしてうれしい新年のニュースです。民間活動母体理事長である尾崎信一郎さんは、未来政治塾の元塾生です。2009年6月の『文藝春秋』に編集長から依頼された原稿、紹介させていただきます。また元旦にこのFB上でご来光があがる写真を紹介しましたが、その八幡山の後ろに安土山があります。今年は安土城にもご縁が深まりそうです。長いですがお許しを!(1800文字)。( )は追記です。

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「視覚メディア演出家・信長」 嘉田由紀子:滋賀県知事
(推薦図書 太田牛一『信長公記』)

 今、信長が静かなブームという。この(2009年)9月には、安土城を建築した岡部又右衛門を主人公とした、西田敏行さん主演の映画「火天の城」が封切りされる。昨年以来、琵琶湖周辺でロケをしていただき、その公開が待たれる。

なぜ今、信長への関心が高まっているのだろうか。日本は今や、明治維新以来の政治・行政の大変革期にあるにもかかわらず、まさに、信長のような、時代の流れを透徹した視点で見通し、自ら変革者としての独創的な戦略と勇気をもって、合理的に行動する政治家がすくないからではないだろうか。

これまで、信長について書かれた歴史書は数多いが、信長の足跡を辿る原点といえば、太田牛一の『信長公記』をおいてほかにない。私が最初に『信長公記』を紐解いたのは今から50年前、歴史少女であった埼玉県での中学校時代だったと記憶する。琵琶湖に突き出た小島のような高台にそびえたつ絢爛豪華な金色五層七階の城であった、という場面描写。また城下には秀吉などの家来衆が集まって住み、楽市楽座によるにぎやかな武家・商業町が造られていたという解説も印象的だった。一方で、比叡山の焼き討ち場面は衝撃的だった。

それゆえ、昭和四十年の九月上旬、中学校の修学旅行での帰路、東海道本線の安土駅を通りすぎて、目の前に広がる水田とそこにこんもり茂る小山が安土城跡だと知った時は大変なショックだった。「この何の変哲もなさそうにみえる風景の下にあの信長の歴史が隠されているのだ!」。前日、比叡山根本中堂もおまいりし、全山、火に包まれながらも守られてきたご本尊の薬師如来や不滅の千年の法灯、ドライブウェイから眺める琵琶湖のたおやかな風景に心奪われた後でもあった。

こうして、私は近江のとりこになり、近江で学び、琵琶湖や地域社会の研究をし、家族も得て、すっかり近江人になり、今、知事として、滋賀県の未来を拓く政治、行政に責任をもつ立場となった。改めて『信長公記』を紐解いてみると、税金徴収の根拠ともなるような検地制度を開始し、移動する土地土地で道路を直し橋をかける公共土木工事を実施し、商業の妨げとなる関所を廃止し、まさに近代的ともいえる行政制度を実現していくプロセスが見えてくる。道路を開削すると敵に攻められる、とむしろ交通網整備に消極的だったそれまでの為政者との違いは明白だ。

政治は時どきの人びとの感性とどう共鳴するのか、という視点から改めてみてみると、信長の「見せる」という視覚メディア演出家としての戦略が見えてくる。なぜ、安土山に五層七階もの天守がそびえる城をつくったのか。近江には中世までの拠点の城が数百ある。信長が征服した近江源氏、佐々木氏がたてこもった観音寺山はまさに、安土山と小道ひとつへだてたあい向かいにある。湖北の小谷城、湖東の箕作山など、いずれも山中に要がいを築き、立て篭もり型の、隠れる、外から見えにくい城だ。

京都では天皇の目前で、今でいう軍事パレードともいえる「馬揃え」に、着飾った家来と馬たちを何百頭も動員する。信長自身の装いはというと「描き眉の化粧に、金砂のほうこうをつけ、頭巾は唐冠で後に花をたて、紅梅文様の小袖で、袖口は黄色の刺繍で縁取りがしてある」(現代語訳『信長公記』下)という。信長のいでたちはさながら、「住吉明神」の出現を思わせる神々しいものであった。

「近代化」を「自らの優位と普遍性を主張する概念」とすれば、信長のこれらの仕掛けは、視覚メディアが近代社会で優越するというマクルーハンの思想も先取りするような近代的仕組みでもある。視覚表現が、権力装置として、当時の人びとの内面世界に刺激をもたらし、それが口コミ言説となって、信長の天下統一への人びとの社会意識を支配していったのではないか、というのはいささか、過剰解釈であろうか。

活字が生まれ、世間の社会意識も支配するはるか以前から、非日常のイベントを視覚的に色鮮やかに、また空間配置をもって演出する信長の独創性は、改めて現代的な政治的コミュニケーション論のまなざしから論考してみる価値がありそうだ。

京都新聞の記事、紹介します。

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