すでに小松明美さんが紹介してくれていますが、8月7日、滋賀県長浜市余呉町中河内(滋賀県最北の集落)の焼畑の火入れと赤カブの種蒔きに参加。思い起せば大学にはいったその年、今から52年前の1969年に探検部の先輩の福井勝義(故人)さんがリーダーの焼畑研究に誘われ、高知県仁淀川上流の椿山(つばやま)の村落調査に参加。数回現地に行き、焼畑でのミツマタづくりや女性の暮らしぶりを調査させてもらいました。当時は「焼畑の利点は、耕す手間が省け、火入れで害虫を殺し、灰が肥料になる」と言われていました。ただ、その頃と比べると学際的研究がはるかに進んでいます。具体的には火入れをすることで土壌中の、そのままでは使いにくい窒素分などが活用できるので、化学肥料や除草剤なしの有機農業が可能。また火入れで植生が若返り、イヌワシの餌などになる小動物も増えるという。若い人が減っている地域の活性化にも貢献ということ。感動の焼畑訪問でした。8月8日。(長いです、すみません、2000文字)(写真撮影:古谷桂信)
最近になってようやく文理連携の学際研究が進み、また地域振興への貢献ということで、昔と比べると各段に研究内容と地域との連携が進化しています。滋賀県立大学の黒田末壽さんや野間直彦さん、京都先端科学大学の鈴木玲治さん、京大生態研の皆さんが参加しておられます。鈴木さんが研究代表者で科学研究費「地域の在来知を活かした日本の食・森・地域の再生:地域特性に応じた生業モデルの構築」も受けています。13年前に滋賀県立大大学の黒田さんたちが、地元の摺墨の永井邦太郎さん(故人)が栽培をしていた赤カブのタネを元に焼畑を始めたという。
鈴木さんたちは、火入れをした後の土壌を深さをかえてサンプル化しその成分を調べるということ。結果が楽しみです。また栽培植物学の研究も進んでいます。もともと高時川流域の赤カブは集落ごとに形が違っていたという。鷲見では扁平な形、中河内では扁平で上が盛り上がった形、摺墨は細長かったという。しかし1990年代に丹生ダム計画で、7つの集落が余呉の平野部に移転した。移転先では隣近所で栽培することになり、チョウチョなどが動きまわるので複数の集落の遺伝子が混ざり合ってしまった!という。永井さんのタネはすでに多様な形状だったという。そこで遺伝的に元もとの集落の形に分離できないか、という研究が進んでいます。おもしろいです。私が担当して蒔いた種は「中丸型」鷲見型かしら。
赤カブのタネは1ミリほどで本当に小さいです。野間さんが区切ってくれて区画にパラパラとうすく蒔くのですがなんとも頼りない感じです。これで本当に均等に種がばらまかれているのかしらと。今日から台風が来るので、きっと水分を受けて2-3日以内には芽を出してくれるでしょう。ただ、大雨だと種が流されてしまって間引きと補植が大変という!自分が蒔いた種がどう芽を出すのか、楽しみです!
また中河内の生き字引きともいわれる佐藤登士彦さん(昭和11年生まれ)から、昔の焼畑や生業についていろいろ聴かせていただきました。呼び方は「山畑(やまはた)」であり、どの家も、集落の入会共有地を利用して1年目は赤カブや大根、二年目は蕎麦や粟、三年目は小豆などを植えて4年目にはそのまま放置して森に戻していったという。土地利用代金は400円か500円を集落に入れたという。川沿いの水田は私有地で、そこで米をつくり、漬物用の赤カブや行事用の小豆などは山畑でつくり、食生活をなりたたせていたという。
また共有山の下草は、5-6月の特定の日に「山の口」を決め、一斉に刈り取ってそれを水田に漉き込んだという。まだ水が冷たく裸足ですきこむのは子どもの仕事で、足が冷たくて大変だったと語ってくれました。水田に化学肥料はなくまた干鰯も干ニシンもなく、各家庭からの下肥(し尿)と山からの下草が肥料だったという。ちなみに小便と大便を分けるという便所ではなかったという(この意味は琵琶湖博物館の冨江家展示を見てください)。佐藤さんにはまだまだいろいろ教えてもらえそうです。佐藤さんが私たちに語ってくれているその表情はとっても活き活きとしていて、写真プロの古谷桂信さんが活写してくれました!
実は丹生ダム計画はいろいろあり、知事時代の私にも責任があるのですが、今は永久中止になっています。もともとの目的が琵琶湖総合開発がらみの下流、大阪・兵庫の渇水対策ですから、水余りの今の時代、復活することはないでしょう。ただ、ダム建設を目的に、500年1000年と長い間連綿と住み続けてきた集落をすべて捨てて、国家プロジェクトという強制下、離村していただいた皆さんには本当に申し訳なく思っています。1980年代から、離村前の7集落の暮らしぶりや離村にかかわる行事などを写された貴重な写真があり、今、その写真を蘇らせようという企画も進みつつあります。昔の暮らしぶりを懐かしむためにも、皆さんに見てほしいです。
実は、今、私たちが昨年から訪問調査をしている球磨川水害調査の人吉市上流の五木村もかつては焼畑が重要な生業でした。知り合いの寺嶋悠さんが、国立民族学博物館の池谷和信さんたちが編集をした『特集:焼畑と文明―五木村から世界へ』(季刊民族学、177号)をつい最近送って下さいました。寺嶋さんの「伝統作物に託す村の未来」ではやはり赤大根など焼畑作物を丁寧に紹介してくれています。また椿山の焼畑調査を指導してくれていた佐々木高明さん(故人)の1960年代の五木村焼畑調査写真が国立民族学博物館に保存されていて、貴重な研究資料となっています。五木村のかつての焼畑は、今は拡大造林のスギ・ヒノキ林になっています。この大量伐採が水害の大きな原因のひとつであることもつきとめつつあります。「水害と焼畑」どこかでつながるかもしれません。それも「流域治水」の延長です。
次、球磨川調査に行った時には、五木村の焼畑技術を伝承しておられる方を訪問したいです。