Facebook 2018年10月12日

10月にはいってもう台風からは解放されるでしょうか。また水害話を復活させてください。今日は「伊勢湾台風被害と丹生ダム計画」。昭和34年の伊勢湾台風では滋賀県内で死者16名の被害が出ました。16名のうち9名は、湖北高時川に流れ込む支流のひとつ、杉野川最奥部の奥土倉鉱山(現在は廃鉱)での土砂災害による死者でした。10月12日。また長いです(スミマセン)。

しかし高時川に杉野川が流れこむさらにはるか上流の丹生ダム建設の理由には「高時川流域では伊勢湾台風で9名もの死者をだしたので、治水ダムとして丹生ダムが必要」と社会的に必要性を説明していました。本流の最上流部につくるダムで、中流部に流れこむ河川の上流の土砂災害による被害は防げません。何が何でもダムをつくりたい時に、行政が無理やりのこじつけをする典型的な例です。

写真1の地図をご覧ください。丹生ダム計画は高時川本流の最上流部、余呉町に1980年に「琵琶湖総合開発」の一環として計画されました。目的は関西圏の水不足対策と高時川・姉川の治水対策の「多目的ダム」でした。高さ145m、予定貯水量1億5000万トン、経費1000億円を超えるという全国最大規模のダムでした。地元説明会は1984年に開始され、半年後には地元は受入を決めました。当時、私自身は余呉湖辺の生活調査を行っていた時期で、余呉町幹部とも知り合いで、幹部は「国が計画したダムが中止になった例がない。受け入れるしかない。それには何としても過疎地から脱却するために地域振興がほしい」と言っていました。

1988年には環境アセスメントが始まり、1993年には地元40世帯の移転補償協定が決着し、1996年にはダム建設予定地7集落の40世帯すべての移転が終了しました。数百年以上M受け継いできた先祖伝来の集落を全村移転することはまさに「生木を抜かれるごとき苦しみ」であった、と知り合いの方たちは口ぐちに言っていました。大変な犠牲による集落移転でした。

2001年から「淀川水系流域委員会」がはじまり、最初の頃の近畿地方整備局の丹生ダム必要性の説明の最大理由に、「伊勢湾台風で9名もの死者をだしているので丹生ダムが必要です」ということでした。私はその時に、図1のような説明をして、伊勢湾台風で、高時川流域で死者がでているのは丹生ダム計画されている高時川本流ではなく、支流の杉野川上流部であり、丹生ダムをつくっても水系が別の杉野川周辺の水害死者を減らすことはできない、と主張しました。

しかしその時、丹生ダムの必要性を説明していた近畿地方整備局のS企画官はこの事実を知りませんでした。無理ありません。水害被害調査をち密にしていない、ただ災害史の文字をコピペしているだけですから。また国から近畿地方整備局に派遣されてくる幹部は2-3年で異動するので地元事情もあまり知りません。S企画官の責任というよりは、ダム計画をすすめる国土交通省の、地域事情無視の構造問題だと理解しました。

一方、その間に京都・大阪・兵庫の下流部の水需要は減少し、利水目的はダム計画からなくなりました。高時川の治水目的だけが残りました。治水だけなら、そんな巨大ダムを、巨額予算でつくる必要があるのか、私自身地域の皆さんの意見を聞きながら、疑問が膨らんでいました。そこで2006年の知事選挙では「丹生ダム凍結」をマニフェストにいれました。

その当時、国は渇水目的という後付けの目的をいれました。京都・大阪・兵庫の下流の渇水時に丹生ダムに溜めた水を放流する、というものですが、これはいかにも苦しい目的でした。2010年9月2日にはダム建設費用の負担をする京都府山田知事、大阪府橋下知事、兵庫県井戸知事、滋賀県嘉田の4知事が現場訪問しました。

一方、私は奥土倉の伊勢湾台風での被災者を探しました。実は土倉鉱山は1965年に廃鉱になり、当時そこで暮らしていた数千人の人たちはもともとが鉱山技術者とその家族で全国に散っていて地元には証言者がほとんどいませんでした。そのような中で、私の母校の埼玉県立熊谷女子高校100周年記念事業に卒業生として2008年に講演に行った時、当時の篠原義廣校長先生が「自分は滋賀県の土倉鉱山で生まれ育った」と言い、土倉鉱山での伊勢湾台風の被害を記憶していて下記のような手記を寄せてくれました。偶然の出会いでした。

――篠原義廣さん、昭和25年生まれ、伊勢湾台風当時9歳―
伊勢湾台風が襲来したのは、私が小学校3年生のおりでした。その夜の記憶は、避難した分校から始まります。分校では普段と違う環境に興奮していたのか寝付けず、教室をうろうろと歩き廻っていてその内、「同級生の戸高雪子ちゃんを見ていないか」と何回か質問され、「どうして」かと問い返した記憶があります。「行方が分からない」「だれもどこに行ったのか分からない」という話でした。

翌朝になって自宅近くの裏山が崩れたと聞いて、事故現場を共同浴場の横から覗いたように思います。そこには今までなかった山崩れによる崖が出現していました。土砂は山のふもとから数十mも流れ出て、押し出していました。山の中腹にあった黒川さんの家と近藤さんの家が跡形もなく流れ落ちていました。 多くの人が巻き込まれたことも分かってきました。また、「遺体がどこそこで見つかった」「どこどこに安置してある」という話も伝わってきました。同級生の戸高雪子さんも犠牲者の1人だったのです。

学校がしばらくの間休みになり、担任の先生が見舞いにきてくれました。自衛隊の方々が駐屯して遺体収容にあたりましたが、テントによる駐屯生活では食中毒を起こさぬよう衛生管理が厳しいことが話題になっていました。社葬のあった日は授業が半日になり、午後から葬儀に子どもながらに参加しました。雪子さんらの写真を高く揚げた葬列が会場を通り抜けたのを記憶しています。(この時と思われる写真あり)

伊勢湾台風は、私の記憶では雨台風でした。杉野川の水量が増えて洪水の危険があったのですが、予期しない山崩れで犠牲者が出る結果となりました。崩れた山には私も遊びに何回か登った記憶がありますが、高い山ではありませんでした。大きい樹木はなかったようにも記憶していますが定かではありません。
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(なお篠原さんの手記と篠原さんのお母さま、また何人かの証言は、滋賀県のHP「水害の記録と記憶」に掲載されています)

私自身は2006年の知事公約に丹生ダムも「凍結」としました。地元との何度もの話あいを行い、同時に下流で丹生ダム建設の負担金をだす京都府、大阪府、兵庫県の3知事に現場もみてもらうなど、その必要性を8年かけて議論しました。そして私の二期目8年目の最後の年、2014年1月に、国はダム建設を中止する方針を決定しました。治水ダムとして、建設費からみても「ダムは有利でない」と結論づけたためです。なお国が計画したダムのうち、住民の立ち退き移転後に中止になったのは初めてだといいます。

ただ、地元では長い間の推進の事情もあり、ダム建設中止を受入れ、国、県といっしょにダムの計画地利用や地域振興の議論がはじまったのは2016年9月です。今、その内実をつめていてくれています。大きな決断をさせていただいた私としては、今後、丹生ダム建設予定地の道路補修、森林管理、そして元の住民の皆さんが必要な時に地域にはいれるような地域整備をしていただけたら、と願います。1000億円以上のお金をいれてダムをつくることを考えたらはるか少ない予算で、地域振興はできるはずです。

またこの地域は、日本海側気候と太平洋側気候の境目で、貴重な植生が豊富です。たとえばユツバキの野生種では、30種類もが群生しており今後の調査が待たれます。もちろん、トチノキやブナなどの巨木群も数百本あるだろうと予想されます。このような地域の自然資源を活用したエコツーリズムなども可能です。まさに淀川最源流部の自然豊かな地域です。

長い文章におつきあいいただきありがとうございました。

 

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