Facebook 2014年8月18日

北関東本庄市の、ある養蚕農家の嫁の闘病日記(2)-明治民法の家父長制度の中で苦しめられた嫁の暮らしと、世界遺産の富岡製糸場と絹産業遺産群。

実は、私自身、大学に入ってから文化人類学的な「生活史聞き取り」の手法を学び、大農家に嫁いだ母の苦労を、私なりに聞かせてほしいと何度となく母へのインタビューを試みた・・・。というか、生身の人の暮らしの変遷から歴史を読み解くことを自分のライフワークにしたいと思ったのは、母の存在があったからだ。

しかし母へのインタビューはことごとく失敗した。全く語ってくれないのだ。寡黙な人だった。思えば、あまりに苦しい過去で、実の娘には語れなかったのだろう・・・・。

しかし一方で、お蚕さんを育てる上での愛情や、農作物を育てるプロセスや食へのこだわりは人一倍強かった。彼女は「口で語らずに実践」の人だった。養蚕については、寒い日には練炭をたいて部屋全体を温め、雨の日には、濡れている桑を乾かして、我が子を育てるように「お蚕さん」を慈しんだ。早朝4時頃から夜12時頃の真夜中まで、自分の睡眠時間を削っても、お蚕さんの都合を真っ先に、桑を畑からとってきて、桑をくれ(給餌)、成長を見守っていた。

そして今回、生きている時には絶対に語ってくれなかった苦しい闘病の時の心のうちが日々記されている日記が発見された。「見てもいいものか・・・」と迷いながらも、こわごわと開けて一文字一文字追った。最初の頁にいきなり「(昭和)二八年一月二六日 曇天 由紀子 風邪を引き発熱38.3度。純子 諏訪(婚家)へやろうと思ふが 家庭内があれでは可愛いそうだ」から始まる。

そして「自分に何のやましい点があろう。只ただ働いてきた。・・・過去十年間のこと 走馬燈の如く 思ひ起こされる」と、昭和一八年に結婚し、昭和一九年に生まれた長男征夫の夜泣きがひどく、旦那は出征中で、長男である旦那の兄弟姉妹が7人同居していても嫁には冷たかったこと、などが綿々と語られている。

大正九年生まれの母は女学校を出てから小学校教師をしていたが、祖父、庄田種平が農本主義の教育者であったこともあり、「農家に嫁に行け」ということで、養蚕や畑作を行う大農家、渡辺家の父のところ(諏訪町)に嫁いだ。

ただ、戦後の農地改革で十町歩ほどの小作地を開放してからは、いわゆる「没落地主」で、収入も減り経済的な困難を切り抜けるために、年5回もの養蚕や東京出しのネギやヤマトイモなどの野菜づくりなどで生計をなりたたせていた。

面倒をみるべき夫の弟妹も7人おり、自分の子どもも昭和19年、21年、25年と三人授かり、過酷な家事労働と農家仕事に追われていたのだろう。「粗食と過労で知らぬうちに肺病に犯されていた」という。母の発病は私が生まれて1年半後の昭和26年の秋のようだ。

この日記を読み進むうちに、これは個人の問題として閉じ込めてはいけないと私自身確信するようになった。明治民法に規定された長男子中心の家制度が確立する中で、女にとって声をあげる機会が奪われ、単に「子どもを生み、働かされる存在」でしかない過酷な家生活の中で、農家の嫁は人間扱いされず、まさに「牛馬の如く」働かされ続けていた。

特に渡邊の舅(父の父)は、家制度の権化のような存在だった。「マッカーサーが土地を盗んだ」と、口ぐせのように言っていた。農地解放はアメリカ占領軍がすすめた社会変革だが、祖父にとっては、マッカーサーこそ家破壊の原点だったようだ。

私は子ども心にも、「渡邊家には建物としてのカタチだけのイエと、旧家としての形骸化したナマエがあるけれど、家族の心通うあたたかい暮らしはない」と思っていた。後から、「ieは制度であって、familyではない」と大学時代に習った。

同時に、母の日々の暮らしを私自身は幼いながらも、「なぜ女はこんなに苦しいのか」と矛盾を感じながら、考え、見続けていた。実は私が社会学という学問を目指そうと思ったのも、「個は社会的存在である」という歴史・文化的仕組みを解明し、少しでも女性や子どもの幸せのために社会貢献したいと思ったからにほかならない。

一方、我が郷里では、明治5年に建設された「富岡製糸場」と「絹産業遺産群」が世界遺産として最近認定された。長い間生産量が限られていた生糸の大量生産を実現した「技術革新」と世界と日本との間の「技術交流」により、日本の生糸生産量を大幅に増やし、富岡製糸場は外貨を稼ぐ主要産業となった。世界的貢献をしたのだ。

また日本の歴史からみても、生糸と茶こそが、明治から大正時代の日本の近代化をささえた製造業機械の輸入などの外貨を稼いだ経済成長のエンジンであった。

今回の世界遺産指定にむけた、富岡市や群馬県の地元の人たちの戦略的な保存計画と、地道に並々ならぬ愛情を注いで今回の指定を実現した皆さんのご苦労に深く敬意を表します。

ただ、残念ながら、今回の絹産業遺産群の資料を見てみると、絹の元素材となった「お蚕さん」を育てる養蚕業に精魂こめた働く者たちの姿と心は全くみえない。特に養蚕を支えた女たちの苦労や踏ん張りの記録は見えない。建物としての遺跡群の裏には、社会的制度とともに、人びとの、特に女たちの喜怒哀楽の「お蚕さん育ての心と物語」があるはずだ。

物心ついた頃から「お蚕さん」と共に同じ屋根の下で暮らし「お蚕さん」を育てたその売上で生活をさせてもらってきた家族の物語は、北関東の絹産業遺産群の歴史に厚みをもたせて次世代に伝える意味をもつものかもしれない。

母にとっては、隠し続けたかった日記かもしれないが、今となっては、母と身近な家族の赦しをえて、このFB上で語らせてもらいたいと思う。

(写真① 富岡製糸場と絹産業遺産群パンフレット表紙 ②③世界遺産としての価値 ④その歴史的な背景 ⑤田島弥平旧宅 ⑥田島弥平と類似のヤグラのある渡邊家)

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