Facebook 2014年8月24日

北関東本庄市の、ある養蚕農家の嫁の闘病日記(3)―「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(ボーヴァワール『第二の性』より)

養蚕農家の妻として、母として、闘病日記を書き続けた母の思いに近づきたく、母の日記が隠されていた実家のタンスと部屋まわりを改めて確認をした。8月15日のことだ。
その内容についてはこのあと、少しづつ紹介させてもらいたいと思う。

昭和26年1月27日、「・・・大家族の炊事一切、その他四人の洗濯等、女に課せられた宿命のようなものからは逃れることは出来ない」。

1月29日、「人間なんて弱い動物だ。頭が痛い、気分が悪いと思ふと先から先へと想像をたくましくして最悪のことを考える。それならばそれでよい様なものの生への執着からか、死を怖れる。この天地悠久の流れの中に生を受けて、二十年、三十年、長らえても大したことはないものの、悟れぬ者のかなしさよ、・・・由紀子は相変わらずよくならず、・・・不憫な親子、神仏の加護をお授け下さい。由紀子と二人で離れに寝るのも心細いやうだ。・・・三人の子どもの生長、これのみが全身のひかりである」。

タンスがあった蔵は、私自身が高校時代、受験勉強をしていた蔵だった。そこにはいって思いおこしたのは、1966年、ちょうど私が高校1年の時に日本を訪問したボーヴァワールの著作だ。契約結婚相手のサルトルとともにボーヴォワールは来日した。この年はビートルズが来日した年でもあるだが、当時、若者はビートルズを聴きながらサルトルを読むというのが一種の先進的なスタイルとして、ファッション的に扱われていた意味もあったと記憶している。

私自身は、養蚕仕事に追われる母の姿を目の前でみながら、自分は高校生。テレビで、白いターバンを頭にまいた、かっこいい女性哲学者、自由恋愛者のボーヴァワールを憧れのまなざしで眺めていた。

その時読んだ『第二の性』は衝撃的だった。なぜなら、私が日々、母の苦しい暮らしを見ながら漠然と感じていたことを、哲学、思想を読み解きながら、見事に表現していたからだ。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」。女性らしさが社会的に作られた約束事に過ぎないという主張に心から納得をした。

男性・女性という性性は、遺伝的・生物学的に決まるのではなく、社会的・文化的に後天的につくられていく、というテーゼでともいえる。「セックス」と「ジェンダー」の相違を示しているともいえ、「ジェンダー」とは「徐々に獲得していった」性的アイデンティティともいえる。

当時の目の前の日々の父と母の暮らしをみていると、父は農業仕事もほとんどせずに、農業委員や市議会議員など、「町へ出る」ことばかりで、晩、父が家にいたことはほとんどない。

それに比べて、母は、昼間の畑からの桑とり、桑くれから、夜も食事づくりから裁縫仕事など、全く休む間なく働きづくめだった。男はやりたい放題自由に生活をつくりだし、女は家制度と日々の生活維持の労働の谷間で自分の自由は表現しえない。なんて不平等なんだと思った。

では女はどのように文化的、社会的につくられるのか、特に日本の家制度の中でなぜ母のような女性が、大家族内での家事や農業労働で病になっても十分な療養もできず、牛馬の如く働くことだけを婚家で求められるのか。その理不尽を説明するには学問をするしかない、という思いも高校時代、だんだん拡大していった。

実は、明日8月24日から1週間、スイスとフランスに障害者芸術やスポーツ、そして原発と水環境問題などで現地調査にでかけます。フランスのパリでは、サルトルとボーヴォワールが激論を交わしていたというサンジェルマンの街角コーヒーショップ近くに暮らす友人を訪ねることにもなっています。

時間と空間を超えて、女性の歴史が細い糸でつながるかどうか、楽しみでもあります。

ということで、ヨーロッパからの通信事情が不明です。しばらくFBでの発信が難しくなるかもしれません。あしからず・・・。

(写真①②③ 母の日記が発見されたタンスと下敷きにされていた新聞(昭和37年4月7日)と文庫蔵、私が高校時代に受験勉強をしていた蔵でもある、 ④⑤⑥ 婚家で母が闘病していた離れ。私も2-5歳頃までここで母と暮らしていた。)

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