Facebook 2018年10月23日

「倉敷市真備水害被害調査(その4)」「被災者の今」。7月上旬の西日本豪雨の倉敷市真備地区を再度訪問し、復興の様子を調べ、また被災者の聞き取り調査などを行いました。まだまだ不十分ですが水害と水防の歴史、そして1970年代以降の都市化の進行と水防体制の弱体化等についてまとめ、「想定外」をつくらない「命を守る流域治水政策」こそ今求められていることを提案します。(その4)として「被災者の今」を、ご了解いただけた皆さんについて紹介させていただきます。10月23日。また長いです(3000文字近いです!)。

7月西日本豪雨から3ケ月半。河川の堤防決壊で、51名もの死者、4600棟もの浸水被害をだした倉敷市真備地区。10月20日の朝、まず伺ったのは川辺地区の源福寺さんです。住職のお母さまにまずは被災のお見舞いをもうしあげ自己紹介をして、7月6日の晩から7日の状況を伺いました。今も本堂など建物は壁が落ちて竹の骨組みだけの状態。水は1階の屋根上、3メートル20センチの高さまで浸水したという。6日の真夜中、12時前に爆発音があり、後で総社市のアルミ工場が爆発したと聞いた。住職は水防で出ていたが、夜中1時すぎに電話連絡があって、戒名を書いた過去帳を持って車に積んで、お母様を乗せて車で高いところを目指しクリーンセンターへ移動した。避難所ではないが車をここに止めて、車の中で一夜を明かした。

7日の朝になって見ると「呉妹(くれせ)」から先が水没していて大変なことになったと分かった。「川辺」には7日の朝7時か8時くらいに水が来た。7日には通行止めでお寺に戻れなかった。水が引いたあと8日にお寺に戻った。戻ったときに最初思ったのは洪水で大量の水と物が流れてきていたがお寺の建物は残っていた。お墓も流れていなかった。ただ約300基あるお墓が泥だらけ。これではお盆が迎えられないと全国から石材屋さんが70人もボランティアで集まって下さって洗浄してくれた。今はピカピカでした。

源福寺さんには高梁川や小田川が決壊した明治26年(1893年)の大水害の時の慰霊の石碑がある。ここには「溺死者二百余」とあり、『真備町史』の180名死者という数字より多い。またかつて江戸時代に水害防除のため川辺地区を輪中で囲ったという「かぐら土手」のなごりの石積みも確認、写真撮影。明治26年の水害時、川辺地区383家屋中19戸を残して365戸が流出。この水害のあと国の指導もあり「水害予防組合」ができ、その後昭和9年の室戸台風、昭和47年、昭和51年の床上・床下浸水200戸から300戸の被害があったが死者は出ていない。水害予防組合の水位計測、堤防巡視、避難支援の効果が大きかったと言える。川辺小学校には昭和51年の水位記録石があるが地上数十センチの高さです。

このあと、守屋弘志倉敷市議のご案内で、7月7日の早朝に小田川が決壊した場所で被災者の皆さんのお話を伺う。小田川や高馬川の決壊場所は土嚢がつまれ仮復旧がされている。あれほど茂っていた小田川の樹木は一本残らず切り倒されている。ここでは高馬川近くに住む、真備かなりや第二保育園園長小野美佐子さんのお話を伺う。ご自宅は昭和8年に旦那さんのお父さまが建てられる。築80年。まわりに比べると少しだけ高い場所に建っていたが、今回二階まで水がきた。実家が「二万」(にま)にあり「体育館にいるからすぐ来い」とご実家から電話催促があった。
5台ある車を先に動かした。

今考えれば田んぼに置いたままだった農機具を先に移した方が良かったかもしれないが、実家から「それをする前に必要なものだけ持って逃げろ」と言われて、仕事のカバンだけ持って逃げた。通帳がこのかばんの中に入っていたので結果的によかった。家族は全員無事。犬も息子が連れていったので大丈夫だった。ただし犬が車の中でフンをして困った。水害が夜おきてまだ良かった。これが(仕事先で)園児のいるお昼に起きたのなら、大雨や浸水の中で0、1、2歳児たちを別の建物に避難させられるとは到底思えない。

箭田まちづくり推進協議会の守屋美雪さんは下二万に自宅があり、旧住民です。おじいさんが遺言が「家に舟を置いておけ」と言っていたので10年ほど前まで自宅には舟がかかっていた。昭和51年の水害のことは知らないが、明治26年の真備の水害のことをおじいさんから良く聞いていた。「屋根の上から皆が流れるのを見ていた」。小説家を目指していたおじいさんだけあって面白く話してきかせてくれた。青少年健全育成の委員になったあと、子どもも大きくなったところでまちづくり推進協議会の委員になれと言われて、この協議会のメンバーになった。まちづくりの一番は防災。

守屋美雪さんは、倉敷市の伊東市長同席の会議で「日頃から水害の意識を高めるように水害のときの浸水ラインを真備支所に引かせてほしい」と市長にじかに依頼したが、市長の回答は「危機管理室に聞いてほしい」ということだけでがっかり。そのあと危機管理室からもナシのつぶて。電柱に浸水ラインを引こうとしても中国電力も「NO」。そこで、自分で真備町のあちこちに頼んで平成28年4月からオレンジの浸水ラインを真備中学、箭田小学校、井原鉄道に引かせてもらった。それぞれ承諾をもらったところに引いている。学校は子どもの安全のことを気にしているから理解してもらいやすかった。守屋さんは、みんな「幸せボケ」「平和ボケ」だと心配してきた。それが現実になってしまったことを残念に思うとしきりに言っていた。7月7日、自分は水島(倉敷市南部)に逃げ家族全員無事だった。

かつて自分の集落ではいくつもの家に舟がつるしてあった。自宅にも舟があったが、捨ててしまった。(このヒアリングのあと守屋美雪様のご自宅を拝見)。ご近所のお宅の壁にもかつて舟が吊るしてあった。その場所を教えてもらう。自宅にも1階の壁(外側)に舟を吊り下げていたが、この建物のとなりに新しく家を建て増しした際に邪魔になるので捨ててしまった。近所に火の見櫓あり。

小田川・高馬川合流地点のご近所(高馬川の堤防から数えて3軒目)の一戸建ての借家にお住まいの40代の男性は6日の夜は自宅にいた。防災無線は聞こえなかった。携帯電話は緊急警報が鳴りっぱなし。濁流が押し寄せるなか、自宅の松の木につかまっていて消防のレスキュー隊に助けてもらったと当時の怖かった思いを語ってくれた。高馬川沿いの家は二軒、濁流で流されその中の一軒の91歳のおじいちゃんが亡くなられたという。同じ家の若いお嫁さんは下流で救われ、九死に一生を得たという。

長いレポートにおつきあいいただきありがとうございました。

なお、この調査は、地元倉敷市選出の柚木みちよし衆議院議員と秘書の戸次(べっき)さんたちのご協力で実現したものです。記して感謝申し上げます。

次の(その5)のレポートでは20人の方たちのアンケート調査の結果などを紹介します。

 

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