Facebook 2016年3月14日

あの3・11から5周年。3月13日(日)には原発銀座の若狭湾岸の中で、過去40年間、原発立地を拒否し続けてきた小浜市での「メモリアル・アクション」会合に参加。「若狭と滋賀・関西、そして福島はつながっている」という思いを新たにしました。3月13日(長いです)。

1960年代、日本各地の農山漁村がそれまでの生業の中心であった一次産業の衰退、特に米の減反政策がすすめられ、地域経済の将来への自信を失う中で、都市型・近代型の産業振興に地域の未来を託しました。その典型が原子力発電所の立地であり、若狭湾岸の敦賀・美浜・大飯・高浜では原発立地に地域の未来への振興の願いを託しました。

その同じ時代、同じ地域で、「原発に依存せずに、地域の歴史・文化・自然を活かして未来を描こう」と積極的な地域振興哲学を出された人たちが小浜にはおられました。その中心が国宝三重の塔を擁する明通寺の住職である中嶌哲演さんたちです。

今日はその筋金入りの小浜の皆さんが、「さよなら原発2016集会」を開催なさるということで、中嶌さんたちにお招きいただき、「びわこは避難できない!卒原発の若狭と関西をめざして」という講演をさせていただきました。

まず弁護士の笠原さんからの3月9日に出された大変タイムリーな「大津地裁高浜3・4号機運転差し止め訴訟」についての法的な説明をいただきました。昨年の福井地裁での大飯原発・高浜原発の差し止め訴訟での法的な指摘をふまえて、それ以上に踏み込んだ、稼働中の原発の差し止めを命令した大津地裁での法的判断の評価を冷静にいただきました。

中嶌さんの問題提起に続いて、福島楢葉町にお住まいの早川千枝子さんから、突然襲ってきた原発による放射能汚染がいかに日々の暮らしを破壊し、住みなれた家を追われ、ふるさとを追われ、孫子と分断された厳しい5年間であったかをご報告いただきました。涙なしにきけない報告でした。

その後、私からは大津地裁判決に込められた滋賀県民の原告29名の思いと願いは特別な県民の願いではなく、固有な生き物が豊富で、近畿圏1450万人の命の水源を過去40年以上、武村知事の時代から守り続けたきた滋賀県民にとってはごく一般の願いであることを説明申しあげました。

私は2006年の知事選挙で、まさに「軍艦のような現職に手こぎ舟」で立ち向かった選挙でしたが、それも滋賀県の歴史・文化・琵琶湖を愛する県民の願いを受けた知事職であったこと。それゆえ3・11以降、琵琶湖に近接する若狭湾岸の原発リスクは決して他人事ではなく、滋賀県民にとっては自分事であるがゆえに、リスクの見える化を行い、被害地元としての認識を深めながら、今回の裁判の背景等を詳しく説明させていただきました。

そして知事としていくらち密に避難計画をつくろうとしても、立地自治体並みの情報もなく、ヨウ素剤の配布などの条件も未整備で、交通条件や避難指示体制も国の法律の縦割りの中で何とも実効性のないことを具体的に説明させていただきました。そして何よりも万一、人間が避難できても、琵琶湖そのものは移動できず逃げられない、そこに暮らすアユやビワマス、ホンモロコなど生き物は逃げられない、ということを訴えさせていただきました。

その後、20名の方がそれぞれにリレートークで、住民の立場、議員の立場、原発作業員の立場などで、若狭湾岸の原発が稼働し続けることの理不尽さを、心から実績経験と実感をもって訴えておられました。

帰宅後、午後9時から、NHKスペシャルの90分番組「原発メルトダウン 危機の88時間」を一刻も逃さずという決意のもと見ました。吉田所長の「東日本全体、人が住めなくなるかもしれない」という危機感の切迫さ、「神頼み」でどうにか最悪の事態を脱出できた、その有様をみて、若狭湾岸にもしものことがあったら「西日本壊滅」もあるかもしれない、と背筋が寒くなりました。

この番組をみて、若狭湾岸の原発稼働に責任をもつ関西電力の責任者の皆さんの、立場をこえた、心ある声を聴きたいと思いました。

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