Facebook 2016年5月9日

大地と地域に根差したお母さん・お父さんたちが生みだす「つながる・つながる」三井寺オーガニックマーケットに久方ぶりに参加。野外寺子屋で二つのお話。アメリカ在住の春名聡子さんの「大地と地域に根ざした母たちが生み出す国際教育」と、京大の藤原辰史さんの「幼児・子育てには積み木と畑と歌が必要」という18世紀ドイツの「幼稚園」発祥の社会史を踏まえてのお話を伺う。 5月8日。(また長いです)

深い森に囲まれた広場での、なぜか心が休まる落ち着くマーケット。心づくしの手づくり食べ物や日常品。無農薬・無化学肥料で自家栽培した農作物を中心に無添加の加工品や手づくり品など、30近くの店が集まる「オーガニック」な場。つくる人の顔が見えて、つかう人の暮らしが見える。そんなつながりを大切にした手づくりの暮らしアイテムが集まるマーケットに次男夫婦と孫たちと参加。日傘の下でゼロ歳の孫を昼寝させながらの受講。

元もと東日本大震災の福島原発事故で、暮らしや遊びを制限されている子どもたちに、のびのびと心身共にリフレッシュしてほしいという願いから始まった「びわこ☆1・2・3キャンプ実行委員会」が源となって始まったマーケット。

マーケットの広場は1200年前の比叡山延暦寺にたどる琵琶湖仏教文化の伝統と記憶を伝える三井寺の「千団子さん」境内。「千団子さん」は、鬼子母神という、人間の子どもを奪い食する悪鬼が釈尊の教えにより仏教に帰依し善女神になったといわれている信仰の場。

時として鬼母の感性も隠しもっていると自覚しながらの子育てに悩む母や父には、他人事に思えない今の子育ての日々。虐待やニグレクト、決して他人事ではない。特に都市化・核家族化の中で孤立する子育てを強いられる母にとってはまさにこのつながるマーケットは、鬼子母神を善女神に生まれかえさせてくれる現代の釈尊の教えの場にも思えます。

そんな子育ての悩みを相対化する意味での学びにふさわしい、国際的かつ歴史哲学的なお話が今日のお二人のゲストでした。アメリカのワシントンD.C.で暮らしている春名聡子さんは、村上悟さんたちと対談し、ご自分が経験した「ウーマンズサークル」「共感のコミュニケーション」「ネイティブアメリカンの子育て」など、体験に則したリアルなお話をして下さいました。

孤立しがちな日本の子育てと比べると、特に「ネイティブアメリカンの子育て」は、人と人が感性をつなぎあう中で、サークルづくりをして、協働の子育てをしておられる、ということは日本の今のがんじがらめの子育て意識を解放してくれるものでした。

京大の藤原辰史さんは、ドイツ社会史の研究成果から、18世紀末から19世紀初頭に活躍したフリードリヒ・フレーベルが、今でいう「幼稚園」(キンダー・ガーデン)を提案した歴史を解説・紹介下さいました。「幼稚園」に必要な三要件は、「積み木」「畑」そして「歌」という。考えたら今の幼児教育に埋め込まれている要件の発明はフレーベルに始まっているということです。

なぜ積み木なのか? 19世紀初頭当時のプロイセン国の男中心・軍国主義社会の中で、子ども達を預ける場として、子どもが楽しいと思える空間を「キンダー・ガルテン」と名付け、まさに「子どもの庭」をフレーベルが提案。明治初期に日本に導入された時に「幼稚園」と翻訳されたが、まさに「子どもの園」。

19世紀ドイツのロマン主義思想の元では、子どもは神的存在であり、石や自然などと会話ができるという意識や、自然を大事にする思想が生れ、その中で子どもたちの育ちを見守る場として「キンダー・ガルテン」が展開された。

その「キンダー・ガルテン」での遊びものが「積み木」であり神からあたえられたモノという意味づけがなされ、積み木は、個別の形を積み上げるだけでなく、壊す楽しみ、崩すことが大事であり、「崩しては積み上げる」「積んでは崩す」という繰り返しが真髄という。

そこで、現代の技術的象徴でもある「原発」を振りかえってみると、原発は「崩せない」「壊れにくい」、壊れたらあとは始末におえない、ところに本質的問題があるのではないかという。

このあと、社会的動きとして「こわしては積み上げる」「積み上げてはこわす」という柔軟な意識や社会運動が滋賀県でうごめいていることを「滋賀方式」と名付け、藤原さんは展開。

知事や市長が上ではない、市民が元、すべてが市民が演じ、自分たちで作り、つながりひろがるのが滋賀方式ではないかと解釈。滋賀方式は純粋都市ではなく、町と村での繋がりがあり柔軟性があり、「ロバストネス」(強靭性)という災害がきても耐えて分散する、柔軟性が埋め込まれている、と評価をいただきました。

この時期、1837年にリービッヒが、農作物が育つ「三元素(チッソ、リン酸、カリ)」を発見し、近代農業の基礎となる「化学肥料」と、肉の旨みである「ブイヨン」を発明し、化学的還元主義の理論的存在ができたという。

では「畑」と「積み木」はどう繋がるのか?「畑」では、植物が育ち、それを破壊すべく収穫をし、また植えて、という繰り返しが埋め込まれている。これはまさに「死と再生の循環」であり、乳幼児期に大事な世界観を養ってくれるという。

その後、哲学者のアドルノが、幼児にとって重要な音の経験、音楽や歌をいれこむことで、幼児教育の三要素「積み木」「畑」「歌」がそろったという。

私自身、藤原さんに質問する形で、以下の二点のコメントをさせていただきました。ひとつは、今、スポーツ大学に奉職しているが、まさにドイツ、プロイセンの軍国主義的な教育から派正してきた日本の明治以降の体育教育に、子どもたちの遊びや野外活動、そして体を動かすことの内在的な楽しみをいれこんだ「スポーツ文化」を学び育てるのが、今、私が学長をしているびわこ成蹊スポーツ大学であることを紹介させてもらいました。

あわせて、日本の研究も行政も、実はリービッヒの近代農学の「要素還元主義」に支配されていて、琵琶湖を見る時に、窒素やリンという要素で水質を規定し、生き物の生きる場としての水域総体や、人がかかわる風景としての心地よさなど文化的意味づけが排除されてきたことに近代要素還元主義の問題があり、今につながっていることを指摘させてもらいました。

藤原さん自身もフレーベルやリービッヒの近代化論のもつ要素還元主義も批判なさっているようですが、いずれにしろ、今私たちが当たり前と思っている子育ての制度や仕組み、思考が、ある歴史哲学を背景にしていること、大事な学びでした。

個人的には、今日の夕食は、ホダキ育ちのシイタケや、新鮮エンドウマメなど、たくさん仕入れてきて、エンドウマメとシイタケのスパゲッティをつくり、味わいました。

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