Facebook 2022年10月3日 「武村正義さんがご逝去」湖国滋賀県にとって、また琵琶湖にとって大変な恩人

10月1日の晩、武村正義さんがご逝去され、ご親族での葬儀が終わったという報を受けました。各新聞社からの電話取材に応じさせていただきましたが、改めて、湖国滋賀県にとって、また琵琶湖にとって大変な恩人であると深く感謝申し上げ追悼の言葉をささげさせていただきました。また国政においても、まさに1990年代のリクルート事件など、金権まみれの自民党政治に終止符をうつべく、政治改革をすすめ、今の政党交付金制度や小選挙区制などの実現にこぎつけました。国政においても、滋賀県の地方自治、琵琶湖政策にとっても、大変な恩人です。心よりご冥福をお祈りもうしあげます・・・・合掌。10月3日。(また長いです、すみません、2500文字)。
私が初めて直接に武村さんにお会いしたのは今から40年以上前の1981年11月のある日、滋賀会館北館の琵琶湖研究所準備室でした。ひょっこり武村知事自身が姿を現しました。ちょうど準備室長(後の琵琶湖研究所長)の吉良竜夫さんもおられました。私は大学院を終わってその11月1日から滋賀県職員としての勤務が始まった直後でした。武村さんは吉良さんだけでなく、私のような新人職員にも気楽に話しかけてくれました。その頃、すでに「国際的な湖沼会議をやりたい」という思いももっていたようです。吉良さんも私も琵琶湖は国際的な存在だと当時から思っていましたから武村知事の構想には大いに賛成しました。
そもそも琵琶湖研究所の開設は武村知事の肝いりでした。知事が一期目の1977年に大量の赤潮が琵琶湖で発生し、その対策として、石けん運動で住民を巻き込みながら、日本で最初の富栄養化防止条例を1979年につくりました。そのプロセスで琵琶湖の水質や生態系、社会文化的な課題も山積しており、分からないことが多すぎると、滋賀県独自の研究所をつくり滋賀県の環境政策のレベルをあげたいと決意なさいました。そして当時の県のアドバイザーだった梅棹忠夫さんに相談して、吉良竜夫さんが所長として赴任しました。吉良さんが「研究費が心配」と言ったら知事がぽんと10億円の基金をつんでくださり、武村さんの理解の深さが琵琶湖研究所のその後の発展につながりました。
「自治体が国際会議をするのは生意気だ」と外務省から叱られながれ、世界湖沼会議は1984年に第一回を大津市で開催。当時の皇太子ご夫妻(今の上皇上皇后両陛下)も参加。海外から来られた皆さんに琵琶湖の歴史や社会的役割を理解してもらえる場がないとその時気づき、琵琶湖研究所から琵琶湖博物館を提案しました。具体的な企画、建設は次の稲葉稔知事の決断でしたが、琵琶湖博物館はおかげさまで1000万人以上の方が琵琶湖の学びを深めてくれています。また武村知事と当時の奥村展三県議(後衆議院議員)の発案で「うみのこ」という宿泊学習船も始めました。「二代目うみのこ」も造られ、滋賀県民60万人以上が湖上宿泊体験で、琵琶に親しんでいます。
またあまり外部には知られていないですが、琵琶湖総合開発計画で南湖のど真ん中をまっすぐ通っていた湖中道路を、吉良竜夫所長のアドバイスを受けて陸側に貼り付ける判断も武村知事でした。湖中道路になっていたら、南湖の環境は今よりももっともっと悪化していたでしょうし、そもそも「魚のゆりかご水田」のような魚が遡上・産卵する田んぼ政策は実現できなかったでしょう。
今こそ滋賀県は県民ひとりあたりの図書貸し出し数が1-2位ですが、この図書館ネットワークをつくりだしたのも武村知事の時代です。滋賀出身の日本画家小倉遊亀さんの作品の寄贈を受けて始まったのが近代美術館です。滋賀県の文化行政を引っ張ってきた上原恵美さんが、武村さんの意向をうけて、びわ湖ホールも含めた滋賀県の文化政策を牽引してこられました。
また私にとっても、研究者として琵琶湖研究の場をつくっていただいた上に、2006年の知事選挙挑戦の時も、さまざまなお立場がありましたがこっそり応援くださいました(今だから申し上げます:微笑)。2014年、「知事二期目で区切りをつけたら」と勇退すべしとアドバイスを下さり、三日月知事へのバトンタッチ選挙では県内全域で連日の応援をいただきました。「嘉田から三日月へ」という流れをつくった地域政治集団「チームしが」の発足にもお力をくださり、「チームしが特別顧問」としても応援下さいました。
10月2日から3日の武村さんの訃報を伝えるニュースに加えて、取材・インタビュー記事・評伝記事の見出しだけを滋賀県紙と全国紙でまとめてみました。ぬけている記事もあるかもしれませんが、滋賀県にとってだけでなく、日本の政治史に残る大政治家であったことがおわかりいただけると思います。武村さんの政治にかかわる本2冊、改めて読み直しましたが、「国会の中の歩き方」を今学ばせてもらっています。
<滋賀県紙>「地方の痛み分かる人、草の根自治推進、湖国から感謝、地元で悼む声、バイタリティのある方、本当のリーダーだった、先見性と嗅覚湖国で培う、細川政権立役者」(京都新聞)、「非自民連立で官房長官、琵琶湖愛し環境保全訴え、県民との対話重視、草の根県政進めた」(中日新聞)、「知事3期環境政策に力、晩年も県政界で存在感」(読売新聞)、「環境政策 滋賀をさきがけに 県政3期11年 水質改善へ独自条例 突出した政治家 琵琶湖の大恩人 私たちの誇り」(朝日新聞)、「湖国の環境守り伝える 図書館の充実図る 国家像“キラリと光る国”」(毎日新聞)
<全国紙>「90年代連立政権の主役、自民一党支配に終止符、高い理想、常に真剣、与野党から追悼の声」(読売新聞)、「改革旗印、大政変生き抜く、反骨精神支える冷徹さ」(日経新聞)、「平成の政変したたかに」(朝日新聞)、
何よりも、「ムーミンパパ」として愛し、愛される方でした。カラオケが大好きで、コロナ前にはよく誘われました。春日八郎がオハコでした。私は八代亜紀の「舟唄」。お母さまやお父さま、大事にしてくれたおじぃさまを早くに亡くされ、家族的にはご苦労なさったことと思います。今頃、なつかしいご家族に天国で会っているのではないでしょうか。心からご冥福をお祈り申し上げます・・・・合掌。(長文におつきあいいただき恐縮です)。
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