Facebook 2022年5月5日 「川棚川流域治水ものがたり(その1)

「川棚川流域治水ものがたり(その1) 江戸時代に流域治水の原型が成立?」5月5日(長いです、すみません、2500文字)
連休前半は、長崎県の川棚川流域(石木ダム計画地含む)を「流域治水」からみる目的で現地調査をすすめました。長崎県も国の流域治水推進の方針を受けて、川棚川の流域治水協議会を令和4年度に発足させると公表しています。今回の目的のまず1点目は流域全体で、山間部から水田など、いかに「ためる」「ながす」「とどめる」「そなえる」という流域の統合的保全がなされているか、全体として地形、水の流れ、土地利用もふくめて調べることです。また川の生き物や子どもたちの水辺遊び、水の信仰なども調べます。結論から言いますと、江戸時代末期に、川棚川、特に上流の波佐見川は今でいう流域治水の基本形ができていたことがわかりました。
目的の二点目は過去の水害被害の実態を古写真や経験者の証言を集めて再現し、今後の被害軽減に役立てること。今回はもっぱら環境社会学的な聞き取り中心です。それと私はよそものなので、地元の人たちが中心となって聞き取りをできるよう、調査手法の伝達・共有の場でした。結論的には、戦後最大という昭和23年の水害では流域で11名の死者記録がありますが、土砂崩れか川の氾濫かを特定する必要があります。戦後二番目という平成2年の洪水では床上浸水はありましたが、人的被害はありませんでした。今後、地元の皆さんが聞き取りを進めてくださいます。
まず波佐見町ですが、図にあるように、石木ダムの流域面積は川棚川の約11%しかありません。上流部の波佐見町が約9割を占めていますので、川棚町の水害被害を軽減するためには、上流部の波佐見町流域の森と水の流れを精査する必要があります。川棚川は波佐見町内では「波佐見川」と呼ばれ、波佐見川には「波佐見・緑と水を考える会」というグループが坂本健吾さんたちにより平成2年につくられていました。そういえば平成時代「いい川・いい川づくり」という全国大会に波佐見町から参加をしておられました。今は田崎武詞さんたちがあとをついでおられるようです。今回、とっても急なことでしたが、田崎さんが波佐見川をご案内くださいました。
まず歴史ですが、波佐見町には22の村落共同体(一般に言うムラ、波佐見が属していた大村藩では“郷”といいます)があり、それぞれの郷毎の古代から現代までの開発の歴史をふくめた『波佐見二十二郷の風土記』を地元の元教育長の奥川光義さんがまとめてくれています。それによると、江戸時代のはじめには石高2484石という見積もりが230年後の江戸末期には8051石、三倍以上に増加し、「波佐見1万石」と言われたほどの生産力の増大がありました。
その背景には水田用の利水開発と、洪水をふせぐ治水、それと山を守る森林管理があったようです。利水では山間部に「堤」といわれるため池を215ケ所、「井手」といわれる井堰を139ケ所開発したという。大村藩が、水田開発者を郷士(武士)に取り立てるという奨励策をつくったことが要因のようです。今も地形図をみると、山の中、あるいは里との境界あたりに多数のため池を確認できます。今後「ため池台帳」などでその貯水量と今後の増強可能性を調べる必要があります。流域治水政策には田んぼダムとあわせてため池貯水の増大というメニューもあります。
洪水被害を防ぐには、まず土地利用です。川沿いを歩くと、昔ながらの人家は高いところに配置され、人家と堤防の間には竹林があるところが目立ちます。「五里の竹林」(20キロ)と昔は言ったようです。ただ、圃場整備や都市開発で竹林も減っているようです。また竹林が桜堤に変わっていて、洪水よりも川の癒しという変化がみえます。地元の昔を知る人によると、堤防が一部低くなっていところ(野越、あるいは霞堤?)があり、大水で水がはいると魚つかみができるので子どもたちが集まってきたという。昔の地図と記憶を頼りに、野越や霞堤についても詳しく調べる必要があります。
森林については江戸時代には「御用山」という藩山が各所にあり伐木は厳しく取り締まられていました。明治になり個人所有に解放され、乱伐が進み、それを憂い明治33年には当時の村長の発案で村有林の植樹をし、昭和になって育った村有林の木材で村役場や小中学校の校舎建設に活用されたという。今も村有林は公的に受け継がれているということです。波佐見の山やまは、上のほうは広葉樹、村裾はスギ・ヒノキの常緑樹が目立ちますが、球磨川流域で目立ったような皆伐地域は見当たりませんでした。波佐見焼の釜の燃料も昭和30年代まで薪を使っていた、ということで、今後、脱石油の薪利用の再現もあるかもしれません。
川とのかかわりでは、「波佐見・緑と水を考える会」の田崎さんが「シーボルトがオランダに持ち帰った」「はさみ川にすむ魚たち」の波佐見焼の陶板がたつ川に案内下さいました。この陶板には執念が見えます。というのもシーボルトの指導をうけて細密画を描いた川原慶賀の原画を京大理学部図書館から利用許可を得たというこだわりものです。ちなみに、シーボルトがオランダに持ち帰った淡水魚は琵琶湖・淀川水系と波佐見川(川棚川)水系の魚類であったことは、淡水環境が豊かな水域の歴史的因縁を感じます。
「波佐見・緑と水を考える会」は、長崎県の中でも淡水魚が最も豊富な波佐見川の魚の生息状況を毎年しらべて図鑑にしています。ホタルマップもつくっており、全域にくまなくホタルが生息しています。魚の手づかみ大会も毎年やっているということで、まさに「川ガキ」が波佐見では育っています。
また水の文化としては、波佐見焼の陶土を粉砕する「水車」「ばったり水車」などはかつて数百あったようで、その復元で地元の小水力活用が期待されます。また「水神さん」「河童伝説」なども各地に残り、さらに、「浮立(ふりゅう)」という鉦と太鼓踊りは渇水時の雨乞いのためともいわれています。水とのかかわりの文化も深い地域です。これから流域治水計画を詰めていくためには、まず今ある風土と水文化の理解が重要でしょう。長い文章におつきあい、ありがとうございます。
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