チームしが県議団・緊急特別勉強会

8月27日、チームしが県議団・緊急特別勉強会「水害多発時代の治水政策はいかにあるべきか?」70名をこえるご参加をいただき、特に流域治水政策の可能性について活発な議論もできました。ありがとうございました。翌日、8月28日は、まさにその現場からの報告です。滋賀県流域治水推進条例で「浸水警戒区域第一号」を受けた米原市村居田地区を訪問し、条例が具体的にどう受け止められ、地域生活にどう活かされているのか、地域を案内いただきました。流域治水条例の意味と意義を紹介するため、現場からの報告をまずさせていただきます。この案内は、放送大学での「レジリアンス(復元力)の諸相」という番組の収録です。8月28日、また長いです(スミマセン)。

滋賀県の流域治水条例では、「浸水警戒区域」とは、200年確率の降雨が生じた場合に、想定浸水深がおおむね3mを超える土地としています。この浸水深だと、一般的な平屋建て住宅等においては、天井高さ以上まで水没し、人命被害が発生するおそれがあるためです。浸水警戒区域内では、命を守るための条件として、住居や、高齢者・障害者・乳幼児等、防災上の配慮を要する人が利用する社会福祉施設、学校もしくは医療施設の建築物は、かさ上げなどの手段を採用し、あらかじめ知事許可を受ける必要があります。

ただ、この条件設定には、行政からの後ろ盾があります。個人住宅を浸水リスクに適合した建築物(耐水化)に改善した場合、県からの補助を受けることができます(宅地嵩上げ浸水対策促進事業)。また個別住宅ではなく、地区として、皆が集まり命を守ることができる避難場所整備が合理的な場合には避難場所等の補助も受けることができます(避難場所整備事業)。

8月28日には、堀居昭司さんと塚本良典さんのお二人にご案内いただきました。堀居さんは平成22年に県が流域治水条例の地元説明を始めた時の区長さんです。私も知事としてその当時、村居田を訪問しました。塚本さんは平成28年の区長さんです。今、おふたりとも「水害に強い地域づくり協議会」の役員さんです。役員は、区長経験者がどんどんつながって増えているということで、村居田の組織的連携の強さの秘訣のようです。

今日は、滋賀県長浜土木事務所の花房大輔主査もご一緒下さいました。また放送大学側は、稲村哲也教授、奈良由美子教授、名古屋大学の鈴木康弘教授と、映像スタッフが加わっています。

まず会館では、平成22年から現在までの住民合意に基づく「浸水警戒区域指定の住民合意」の経過について堀居さん、塚本さんが詳しく説明をして下さいました。ポイントは3点です。一点は、県から浸水マップをみせてもらうまで、自分たちのところが4メートル以上も浸水する場所を含むとは予想していなかった、ということ。伊勢湾台風(昭和34年)の時でも、せいぜい床下浸水だった。しかし最近温暖化の影響などで、大雨も増えているので、姉川と横山に挟まれて「袋小路」のような場所であることは確かなので、県が言うこの浸水の危険性については認めよう、ということになった、ということです。

二点目は、それではどうやって命を守る仕組みをつくるのか。それまで防災避難訓練はもっぱら火災ばかりだったけれど、水害の危険性もあるなら、全戸が集まる避難訓練の時に水害の話を詳しくして、そこで区民全体の意識を高めてもらうことにした、と。そして一軒一軒がいざと言う時にどこに避難するのか、というような「我が家の避難カード」をつくり、同時に地区内には「まるごとまちごとハザードマップ」として電柱に「想定浸水深」の深さを電柱に示して、地域の人たちに危険性を日常的に知ってもらうことにした。

三点目は、住民合意に至った理由です。「警戒区域に指定されると土地が売れないのでは」という心配は確かにあった。でもこの地区は跡取りが外に出ている家も多く高齢化している。土地を売ることよりも、若い人が退職して帰ってきた時に安心してこの地域に住めるように、そして次の世代が未来永劫、安心してこの地域に住み続けられるようにしたい。今この警戒区域指定を受け入れることは次の世代のためだ、ということを地区内で確認した、ということです。

私はこの言葉を聞いて、涙がでました。2010年頃から2014年にかけて、条例の議論を何度も何度も県議会でしていた時に、「地価が下がる」「若い人が住みつかなくなる」という批判に対して、「未来世代の命を守るため」と、くりかえし・くりかえし答弁してきました。この答弁は当時の知事としての意思であると同時に条例を練った県職員の願いでもありました。その「未来の命を守るため」という意志は、この村居田地区では住民合意の共同的意志として確認されていたのです。また今日、堀居さんも塚本さんも、「地域指定のための会議など、県職員が最初からずっと熱心に資料づくりをしてかかわってくれて、本当にありがたかった」と言って下さいました。

会館での経過説明をいただき、その後地域内を一緒にご案内いただきました。「まるごとまちごとハザードマップ」は、1.4メートルでも人の背丈をこえる程なのに、3.9メートルになるとはるか背丈をこえて上に、最深場所は4.3メートル。ここには米原市が水位観測機器も設置しています。また川の中に水位を記して、地区として避難準備をするための「めやす」にしている、ということ。県や市から情報をもらう前に自分たちで避難判断の目安をもっていたい、ということです。川を歩いていくと、洗い場の階段もあり、川とのつながりが今も生きている、いわゆる「近い水」の暮らしが活きていることがわかります。

また出川の最下流部は、横山の森を背景に、ホタルの乱舞する川となっています。ホタルブロックで川岸の補強をしながら、ホタルの生息を地域としても楽しんでいるということ。ホタルダス調査をしてきた経験から「来年、ホタルが出たら知らせて下さい!」とお願いしました。また地域の避難所のひとつである「光運寺」はもともとが、古墳時代にこのあたりの領主であった息長氏の古墳の跡で、最も海抜が高いところで避難所として指定しています。こちらも案内いただき、後には「敏達天皇皇后廣姫息長陵」が整備されていました。

『日本書紀』によれば、廣姫は敏達天皇4年(575年)に皇后になり天皇との間に1男2女を産んでいるということ。廣姫の崩御後には額田部皇女(のちの推古天皇)が皇后になっているということ。塚本さんも、「廣姫さまのお墓をこの村でお守りしているのは誇らしい」と言っておられました。遺跡名は「村居田古墳」。考古学的には異論があるようですが、古墳時代からの歴史を担っている村居田の皆さんにとって、流域治水での警戒区域指定は、ご先祖さまから未来世代へ、命と暮らしをつないでいく思いに水を差す政策ではなかったようです。逆に、水と大地に連綿とつながり米づくりをして生業と命をつないできたこの地域にとっては、流域治水条例は、前向きに受け止めて未来世代に安心の種を埋め込むためのひとつのきっかけにもなっているようです。

作家の司馬遼太郎は、『土地と日本人』(1976年、中央公論社)の中で、「土地が投機の対象となって、土地に根差した思想が育たなくなった」と昭和50年代に述懐しています。村居田の村を歩き、堀居さんと塚本さんのお話を伺いながら、「土地とのつながり」「土地に根差した思想」が流域治水条例受入の隠れた意味なのかもしれない、と気付きました。となると、条例の行き先は、地域アイデンティティや地域の誇りを取り戻すことに集約されるのかもしれません。重たい、けれど、ワクワクする挑戦の余地のある課題とも思います。皆さんご自身、自分の住まいの足元の土地をどう評価するでしょうか。「投機の対象?」「暮らしの思いを刻みこむかけがえのない大地?」、いろいろな思いがあると思います。ご意見,伺いたいです。

長い述懐におつきあいいただき、感謝申し上げます。次回は、チームしが県議団の治水勉強会のレポートをあげさせていただきます。

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