愛媛県肱川ものがたり(その1)

「ダム津波で主人がなくなりました」。2018年12月1日・2日、京大名誉教授の今本博健さんと私は、この7月の西日本豪雨で甚大な被害をうけた愛媛県の肱川流域を訪問し、大洲市と松山市で講演をさせていただきました。数回にわけて報告させていただきます。12月5日。長いです(1800文字)。

「ダム津波で主人が亡くなりました!」、肱川上流部の野村ダム直下の西予市野村町の入江須美さん(51歳)とお会いした時の第1声でした。大洲市での今本さんと二人が話をさせてもらった講演会会場に来て下さいました。その時写した写真を紹介します。真ん中で毅然と立っておられるのが入江須美さんです。「ダム津波?」、思わず聞き直しました。初めて聞く表現でしたが、入江須美さんにとってはまさに、津波のように巨大な水の塊が襲ってきて、あっという間の出来事だったということです。

入江須美さんは旦那さん(59歳)と入江印刷所を、野村ダム直下の野村の町の中心部、三島橋の近くの肱川右岸で経営していました。7月7日早朝、「ダムから放流された、避難して!」と消防団が一軒一軒まわって知らせてくれた後、まずは自分が車で高台に動き、ご主人ももう一台の車を移動するために少し遅れて家を出ました。その直後、ダム津波に巻き込まれたようで、後から車の中から変わり果てたご主人の姿で発見された、ということでした・・・・。今、店と家を撤去した後に「印刷引き受けます」の看板をだし仕事の再開を決意しておられます。

7月7日の午前7時前後、ダムからの放流による家屋浸水で、野村町では5人が亡くなりました。肱川右岸では、入江さんの近くの小玉畳屋さんのおばぁちゃん、と近所の人が一人家の前で亡くなったということ。対岸の左岸でも、ご夫婦がおふたり、家の中で亡くなられたということ。浸水家屋は全体で650戸、そのうち100戸は床上浸水で、屋根近くまで水につかった家も多かったということ。4ケ月以上たった12月1日でもまだまだ痛々しい光景でした。

昭和16年生まれ、77歳の稲葉康男さんが川沿いで語ってくださいました。「私が生まれた直後の昭和18年の大洪水でも、この町は水につかっていない。昭和20年の枕崎台風がこれまでの最大の水害だった、ときくが、その時も川から水は溢れていない。野村ダムができてから、水の流れが急に増えることが多くなった」と証言していました。それでも「今回のような大きな洪水は生まれてはじめて経験した」ということでした。

 

少し下流の野村町倉良の那須熊市さんは肱川漁協の組合長もなさり、四国の漁協の代表もしたという川大好き人です。家も川沿いにあります。日々川を眺めて80年以上の人生を生きてきたという。過去には床下まで水がきたことはあったが、じわじわと水があがってきたことがあるが、モノを移動する時間はあったという。しかし今回ばかりは、ゴーっと大きい水がおそってきて、あっという間に家中が水につかってしまって、奥さんを車にのせて命からがら逃げてどうにか九死に一生を得たという。

平常時毎秒300トンほどのダムからの水量が、7月7日の早朝には、平常時の6倍もの1800トン近くが放流されという。野村町の肱川の断面積からみて、最大1000トンくらいしか流れないだろうというのが今本さんの見解です。そこに1800トンもの水量が一気に流れてきたら、川の両側に濁流が流れ、人びとが住む、暮らす町を呑み込むことは当然でしょう。ダムの放流量を決めて、ダム操作をした事務所ではそのことは分かっていたはずです。

そもそもダムは放流前に、放流のためのサイレンを鳴らし、放流予告をするはずです。ダムの治水効果でよく言われているのが、「大雨の時に、ダムに水をためて、人びとが逃げる時間を稼ぐことがダムの機能です」とも言われています。またダム事務所から西予市に午前2時30分頃に、6時過ぎに放流をするから「避難指示を出すように」と伝えたということ。しかし、西予市が避難指示を出したのは午前5時すぎでした。

確かに7月4日から8日までの降雨量は、野村ダム上流部では600ミリを超えています。記録がある限り、最悪の豪雨だったということです。

地元では「ダムの放流で人が亡くなった。人災だ」という声も聞きました。今回の野村町での被害はなぜ起きたのか?避ける方法はなかったのか。ダム管理者の四国地方整備局の説明や、河川工学が専門の今本博健さんの分析もふまえて、次に考えてみたいと思います。

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