「感謝の碑」の除幕式と記念パーティに参加。

「八幡掘はなぜ残ったのか?」そのままドラマになりそうな、というかドラマそのものを記した「感謝の碑」の除幕式と記念パーティに参加。50年前、水道化が進み町の排水が一気に集まり、堀はヘドロに埋まり、駐車場として埋め立てられ始めた八幡堀の窮地を救ってくれた3人の公務員への感謝が永遠に記されました。川端五兵衛さん、尾賀康裕さんはじめ、関係の皆さま、おめでとうございました。5月12日

ちょうど50年前の昭和44年、八幡堀周辺の自治会がヘドロに埋まる堀の埋め立てと駐車場化を要望。県と国が予算化をして埋め立てが始まる。昭和47年、川端五兵衛近江八幡青年会議所会長らが「堀を埋めたらそこから後悔が始まる」という啓示を受けて、堀の全面浚渫と修景・復元を呼びかけ市民に問題提起。

昭和48年から昭和54年にかけて、滋賀県土木部や建設省河川局に必死に呼びかけ、技術的課題や社会的意味を問い直し、埋め立て工事を中止し、堀を残して保存・修景が完成。この間に、滋賀県八日市土木事務所の岡澤重利所長、国の建設省河川局の増岡康治局長が首をかけて事業変更を決定し、予算措置をする。

平成11年には、当時の川端五兵衛市長が、琵琶湖総合開発計画の一部であった西之湖の湖中堤防の存廃について建設省の竹村公太郎河川局長に要望。局長の英断で湖中堤防計画が廃止され、西之湖全体が保存され、ラムサール湿地にプラスして重要文化的景観第一号として指定される下地をつくる。


岡澤さん、増岡さんはすでに亡くなられておられ、ご遺族が参加されておられました。竹村さんは奥さまとご一緒に東京から駆けつけて下さいました。「公務員として感謝の碑を残してもらうのは極めて異例」と感動しておられました。

行政が一度決めたことを撤回するのは稀有な事です。3名の公務員の方が民間の住民運動の真意を理解され、先見性をもって英断を下してくれたことで、今の八幡掘が残り、重要文化的景観の西之湖が残りました。昭和40年代に、堀の価値に気付き、”死にがいのある近江八幡”のアイデンティティを追及した川端五兵衛さんたちの人生をかけた歩みに改めて深く感動いたしました。

水辺環境の歴史的変化を研究してきた私の立場からは、生意気な言い方かもしれませんが、八幡堀の川端五兵衛さんたちの挑戦は、九州柳川市の掘割を残した元柳川市役所職員の広松伝さんや、越前大野市で地下水保全に人生を賭けた元大野市議の野田佳江さんとともに、日本の水辺環境保全の歴史に残る偉業と思われます。

母の日の5月12日、八幡堀界隈には絵を描く人、お散歩をする人の安らかな姿が溢れていました。平成初期の小学生時代に連れてきた次男に、八幡掘物語を改めて語りかけ、滋賀の誇りである八幡の魅力を存分に伝えました。

白雲橋の上で、旧知の森田光治さんたちに出会い記念写真におさまりました。「掘割に集まる人、皆美しき」!。馴染みの人を呼びこむようです(微笑)。(写真協力:上野邦雄さん)

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